向かって左手に立つ女性の後ろ姿に、鑑賞者の目は釘付けになります。光沢のあるみごとな銀灰色のドレスの、何と美しいことでしょうか。手触りはどんなだろう……と触れてみたい衝動にかられます。これこそ絵を見ることの醍醐味、魅力かもしれません。絵画はこのようにして、しばしば私たちの五感を刺激してきます。
作者のヘラルト・テル・ボルフ(1617-81年)は、17世紀オランダの人気風俗画家であり、肖像画家でした。
父は同名の画家で、弟のモーゼス、妹のヘジーナもまた画家という、画家一家に育っています。16歳でハールレムに修業に出たのち、18歳から13年間、イギリス、ドイツ、イタリア、スペインとヨーロッパ各地を旅行しています。当時の画家にはしばしば見られることとはいえ、それだけ多くの国をまわって多くの作品や画家から学べるということは、とても幸せなことに思えます。
そののち、テル・ボルフはミュンスターにおいて、主に肖像画家として活動を始めました。彼の初期の風俗画は庶民や兵士の生活をモティーフとしたものでしたが、デーフェンテルに移住した30歳過ぎ頃からは、上流市民の生活に取材したものとなっていきます。
テル・ボルフの作品の一番の特徴は、何よりその上品な雰囲気です。オランダ美術にありがちな荒い筆遣いとは縁遠い滑らかな筆致、鮮明で豊かな彩色は人々を魅了しました。しかし、テル・ボルフが最も大きな手腕を発揮したのが、衣類の襞に見られるみごとな織りの表現だったと言われます。この作品の持つ優雅さも、まさしく背中を向けた女性の衣装に負うところが大きいと思われます。
テル・ボルフの作品はその品の良さのためか、しばしば誤った解釈をされてきました。この「父の訓戒」もまた、長いあいだ、上流市民の家庭の場面と誤解されてきたのです。しかし、落ち着いて見ればわかるとおり、娼婦と客の娼家でのやり取りなのです。椅子に掛けた男はベルトから剣の入った吊り革を下げています。明らかに兵士であり、父親であるわけはありません。彼の手にした不自然なほどカラフルな羽根つき帽子も、兵士の目的を物語っているようです。さらに、画面に描き込まれた犬やロウソクといった、一見、無関係に見えるものたちも、この種の風俗画には欠かせないものです。
そして、画面中央、やや奥まって座る女は、いわゆる”取りもち女”です。客と売春婦の間を仲介するのが生業の彼女は、堕落の象徴性の一つである酒を飲んでいるところです。しかし、静かにグラスを傾ける彼女には、なぜか世間ずれした下品さが感じられません。この優雅さが、テル・ボルフらしさなのです。
さらに、背中を見せる娼婦は、実は兵士も取りもち女も見ていないように感じられます。まるで、鑑賞者に顔を見せること自体を全身で拒否するような彼女の姿からは、驚いたことに当時の人が取り違えたように、上流家庭のお嬢様の雰囲気が漂ってくるのです。
西洋で、最も多くの優れた風俗画が制作されたのが、17世紀のオランダでした。人々のありふれた日常そのものが生き生きとしていた当時のオランダならではの現象と言えるかもしれません。実に多彩な人々の営みが表された風俗画から、私たちは当時の人々の生活をリアルに感得するすることができます。
その中でも、売春宿のテーマは、厳格なカルヴァン主義者の道徳的価値観とは相反するものでした。しかし、当時、アムステルダムの一部の地区や一部の都市では、”市の衛生”のために売春宿が許されていたのです。さまざまな象徴性を描き込みやすいという意味でも、風俗画家にとって売春宿は、この上なく興味深いテーマであったことは想像に難くありません。
★★★★★★★
アムステルダム、国立美術館 蔵
<このコメントを書くにあたって参考にさせていただいた書籍>
◎西洋名画の読み方〈1〉
パトリック・デ・リンク著、神原正明監修、内藤憲吾訳 (大阪)創元社 (2007-06-10出版)
◎オックスフォ-ド西洋美術事典
佐々木英也著 講談社 1989/06出版 (1989-06出版)
◎西洋美術館
小学館 (1999-12-10出版)