暗い部屋でふと手をとめ、天を仰ぐ若い女性像です。一瞬、深い祈りを捧げ、神に懺悔するマグダラのマリアを連想させますが、この女性は一日じゅうシャツの縫製にいそしむお針子です。彼女は、昼夜も分かたず働いても一向に生活が楽にならない自らの境遇に、疲れた手を休め、思わず天を見つめてしまったのです。
19世紀のイギリスは、女性が結婚以外に生きていく道を見つけるのがとても難しい時代でした。唯一、教職だけが開かれた道でしたが、それも、中流家庭出身のごく一部の女性にのみ許された職業でした。そのほかの、十分な教育を受けられない労働者階級出身の女性たちが働く場は、お針子ぐらいしかなかったのです。しかし、その賃金は驚くほど低く、生活していくことは困難でした。
そのため、女性たちは相次いで娼婦や、意に染まぬ愛人に身を落とすしかありませんでした。当時、ロンドンに住む全女性の16人に1人が売春婦だったという統計があるほどです。絶望のために身投げする女性も多かったといいます。そういう意味では、この作品の主人公も、いつ同じ運命をたどることになるやも知れません。
リチャード・レッドグレイヴ(1804-1888年)は、日本ではほとんど知られていない画家ですが、当時のイギリス女性の就労事情をテーマに多く描き、衝撃を与えました。世間に問題を視覚化して示すことで、何らかの改善の余地がないかを訴えたものと思われます。特にこの「お針子」は代表作の一つで、女性たちの悲惨な現実を改めて当時の人々に認識させることに成功しています。
この暗い場所は、ヨーロッパの住宅には昔から当たり前に存在した屋根裏部屋です。ただ、もちろん本来は物置や納屋として使われていた場所であり、屋根裏部屋に住むということは、そこを間借りしていた者の貧しさを証明するものでした。画面左の縁の欠けたたらいや、窓辺の枯れた植木鉢などからも、それが察せられるようです。
必死に働く彼女は疲れ切っているのでしょう。目に隈をつくって途方に暮れた表情をしています。彼女はまだ若く美しく、本来ならば将来への夢に輝いている年ごろのはずなのです。だからでしょうか。困窮を極めるお針子でありながら意外にもきちんとした身なりをし、つややかな髪を持っています。このあたりに、画家の意図が隠されているのかもしれません。
画家は、この孤独で貧しいけれど若く美しい女性が、いよいよ今の生活に耐え切れなくなったとき、どんな道を選ぶでしょうか、と見る者に問いかけているのです。そして、こんな世の中のままでいいのですか、と問題提起しているのです。ヴィクトリア朝の絵画では、こうした資本主義がもたらした問題点をテーマとすることも一つの時代の要請だったのかもしれません。
★★★★★★★
ニューヨーク、 フォーブス・マガジン・コレクション 蔵
<このコメントを書くにあたって参考にさせていただいた書籍>
◎西洋美術館
小学館 (1999-12-10出版)
◎西洋美術史(カラー版)
高階秀爾監修 美術出版社 (1990-05-20出版)
◎オックスフォ-ド西洋美術事典
佐々木英也著 講談社(1989-06出版)
◎週刊美術館「ロセッティ ミレイ」
小学館(2000-6-13出版)
◎もう一度、人生がはじまる恋: 愛と官能のイギリス文学
齊藤貴子著 朝日出版社 (2008-4-5 出版)