一目でゴーギャンとわかる朱色に近い赤の衣装をまとったマリアは、タヒチのマリア…。たくましく幅広い肩を持ち、かなり成長した御子イエスを、軽々とその肩にかついでいます。その安心感からか、イエスはすっかり聖母に甘えた様子で、「ほら、これが僕のお母さんだよ」とでも言いたげにこちらを見ていて、その様子はなんとも微笑ましくうつります。
しかし、聖母の表情は飽くまでも瞑想的で物静かであり、慎み深く、そして暖かさに満ちています。大地の母、実りの母としてのマリアには、こうした表現こそふさわしいのかも知れません。ヨーロッパの宗教画の図像学上の約束事ではなく、一見しただけで感じられる豊かな実りが、熱帯の旺盛な生命力の中に描かれるのも、不思議なほどに 心にしっくりと馴染みます。
近代にはいり、多くの画家が描いた聖母子は、ほとんどごく普通の母子の姿をとるようになってきました。しかし、この絵のなかの聖母子には明瞭な円光があり、後方の天使にはみごとな翼が見られます。そしてタイトルからして、これは明らかなる宗教画ですし、2000年前のユダヤ人としてでなく、ゴーギャンの手でタヒチの人として描かれた聖母子は、そのあふれるようなたくましさ、生命力にもかかわらず、天上的な神秘性に輝いているのです。後期印象派の大家ポール・ゴーギャンは、まさしく宗教的体験を追求しつづけた画家だったのだと思います。
彼は数年間の船乗り生活ののち、パリの証券会社ベルタン商会の有能な社員として活躍しました。あくまでも余暇に絵筆をとっていたゴーギャンでしたが、やがて35歳のときに仕事を捨て、家族とも別れて、絵画制作に専念するようになります。その6年後には象徴主義と呼ばれる新しい運動をおこし、印象主義を超える大胆な前進を遂げていきますが、工業化社会が近代都市の住民から人間としての本質をうばい去ったと考えた彼は、やがて、西洋文明を逃れてタヒチへと渡ったのです。
伝道者としてではなく巡礼者として南太平洋の島タヒチへ赴いた彼は、ここで大切なものを学びたいと念願したに違いありません。しかし、この熱帯の風土の中からも、求めていたものは得られませんでした。ここもまた、すでに文明の毒に侵されていたのです。そこでゴーギャンは、絵の中に、自らの夢想を、彼自身の楽園をつくり上げたのです。彼はタヒチの風物や神話を利用しながら、現実のタヒチには存在しない楽園、そしてエヴァたちやマリアを生み出していきました。そのもっとも美しい楽園が、この『イア・オラナ・マリア』だったのです。
ゴーギャンは、西洋文明の革新は「原始の人々」によってもたらされなければいけないと信じました。そして、ゴーギャンほど原始主義の理論を確実に実践した画家もいなかったかも知れません。人間はかつて罪無き状態で生きていた、そして再びその日が来る…そんな地上の楽園という大昔からの伝説を深く信じた「高貴なる野蛮人」ゴーギャンは、1903年に未開の地ヒヴァ・オア島で没するまで、南太平洋を離れることはなかったのです。
★★★★★★★
ニューヨーク、 メトロポリタン美術館 蔵