書物は、最高権威のシンボルです。その書物を聖母マリアが手にしているということは、マリアが神(ロゴス)の母であり、並ぶ者のない、豊かな知性をそなえた女性であることを示しているのです。幼な子イエスを抱くマリアに書が添えられた作品は、フランドルの絵画に多いように感じられますが、イタリアにもこんなに美しい聖母子像がありました。
興味深いのは、母マリアよりもむしろ、イエスのほうが積極的に身を乗り出すようにして書物に手を掛け、見入っていることかもしれません。何て賢い赤ちゃん……と思わず知らず微笑んでしまうところですが、その子が救い主イエスであることを思えば、聖母のどこか悲しげな表情もうなずけます。また、聖母が持つ書物は伝統的に、旧約聖書外典の「ソロモンの知恵」とされており、幼児キリストが手にする書物は福音書を表していると言われているのです。
作者ラファエロ・サンツィオ(1483-502年)は、その作品も私生活も、まさに盛期ルネサンスの理想が集約された存在だったと言われています。 画家であり著述家でもあった父が亡くなり、その工房を継いだのがわずか11歳であったことからも彼の神童ぶり、天才ぶりがうかがえます。15世紀ウンブリアの代表的画家ペルジーノの弟子であったことはよく知られていますが、師弟関係というよりも、むしろ協力し合うような間柄であったとも言われています。
そんなラファエロでしたが、マドンナの画家と言われるほど、多くの聖母子像を描いていることはあまりにも有名です。それらは、古典的で甘美でひそやかで、切ないほどの親密さで見る者の心をとらえます。そこには、8歳のときに喪った生母への満たされない思いが込められていたのかもしれません。生母の死後、父はすぐに再婚していますから、傷つきやすい年ごろのラファエロにとって、それは耐え難い人生の変化だったことでしょう。ラファエロの描く聖母にはいつも、美しかった母の面影が投影され、500年以上たった今も私たちの心にみずみずしく優しく、そしてどこか悲しく響き続けているのです。
ところで、ラファエロの描く聖母子像の視点が、鑑賞者の視点よりもやや高い位置にあることはよく指摘されることです。それは画家の初期の作風の特徴であり、作品に厳かさ、威厳を与えるものでもあります。ここに、ラファエロがレオナルド・ダ・ヴィンチを心から尊敬し、熱心に研究していた跡がうかがえるように思います。そして、彼が決して天才だけの画家でなかったことを物語っているのです。
★★★★★★★
ロンドン、 ブリッジマン美術館 蔵
<このコメントを書くにあたって参考にさせていただいた書籍>
◎西洋美術史(カラー版)
高階秀爾監修 美術出版社 (1990-05-20出版)
◎オックスフォ-ド西洋美術事典
佐々木英也著 講談社 1989/06出版 (1989-06出版)
◎イタリア絵画
ステファノ・ズッフィ編、宮下規久朗訳 日本経済新聞社 (2001/02出版)
◎聖母のルネサンス
石井美樹子著 岩波書店 (2004-09-28出版)
◎西洋絵画史WHO’S WHO
諸川春樹監修 美術出版社 (1997-05-20出版)