そろそろと妻ウェヌス(ヴィーナス)にしのび寄るウルカヌス。密通の現場に踏み込まれて、びっくりした軍神マルスは、実は後ろのベッドの下に隠れてしまっているのです。しかし、ウェヌスのほうは大胆なポーズのまま、たいして慌てた様子でもなくて…せっかく不倫現場に踏み込んだというのに、なんとも間の抜けたウルカヌスの姿がチョット悲しい作品です。
ウルカヌスは、もともと鍛冶の神です。天なる父ユピテルと最高の女神ユノとの間に生まれた由緒正しき神…。しかし、その誕生時から、不幸と言えばこれほど不幸な神もいなかったかも知れません。あまりにも醜く生まれてしまったために、母ユノにオリュンポスから投げ捨てられてしまったり、父ユピテルに足をつかんで投げ飛ばされて足が不自由になってしまったり… と、まさしく両親から虐待を受けて育ったわけです。そんなウルカヌスも、美しい女神ウェヌスを妻に迎えます。しかし、彼の運は好転したわけでもなかったようで、妻ウェヌスは自由奔放な女神…ウルカヌスを裏切ることなど、なんとも思いません。さっそく凶暴で思慮に欠けるマルスと不貞を働き、スキャンダルとなってしまいます。哀れな星のもとに生まれてしまったウルカヌス…(泣)。しかし反面、彼はとても腕の良い鍛冶屋だったのです。神々や英雄たちからの武具の注文は引きも切らず、そういう意味では、生きがいを感じていたに違いない…と思いたいところです。
16世紀ヴェネツィアでは、盛期ルネサンス様式が他の地域よりも長く続きますが、この時期に活躍したのがティントレットでした。華麗な色彩表現、自由な筆触、詩情豊かな風景…というヴェネツィア派の特色はティツィアーノによって確立されましたが、それをより深く受け継いだかたちがエル・グレコとティントレットだったのです。ティントレットは「ティツィアーノの色彩とミケランジェロの素描」を追究していたと言われています。
そして、彼の時代は、カトリック教会が新しい宗教改革に対抗する、高揚した時代であったせいもあり、神秘的な表現が求められ、そのためか、マニエリスムの特徴が非常に明らかです。ミケランジェロに影響を受けた力強い人体表現をヴェネツィア派の伝統的な色彩技法に結び付け、独特な激しい動きと極端な短縮法、奇抜な遠近法を用いた作品が多く見られます。この『ウルカヌスに驚かされるウェヌスとマルス』でも、ウルカヌスが不自然にふわりと浮き上がり、両足が地に着いていません。まるで体重のない人間のようです。ウェヌスにしても、ベッドに横たわっていながら安定感がなく、今にもこのまま雲に乗ってふわふわと飛んで行ってしまいそうです。こうした表現が多く見られるのには、ティントレットが1530~40年代にかけて、フィレンツェやローマの先進的なマニエリスム様式を積極的に吸収したことも大きかったと考えられます。新しくヴェネツェアに流入したマニエリスムに、より深い感情の表明をこめて、さらに劇的な画面を見せてくれているのです。
ところで、部屋の奥に眠っている…というよりは寝そべっている幼児はクピド(キューピッド)でしょうか。ウェヌスとマルスの間に生まれたのがクピドであると言われていますから、あ、そうか…と納得もしてしまうのですが….。それにしても、少々可愛げのない天使くんではあります。
★★★★★★★
ミュンヘン、 アルテピナコテーク 蔵