一度見たら忘れ難い、なんと印象的な肖像でしょうか。帽子の縁からはみ出して不思議なほどに縮れた髪、平面的な皮膚、そこに刻まれた細かい皺とあざ、そしてシミ…。それらが克明に描き出されるなか、何と言っても視線を釘付けにするのは、ふいに顔の真ん中に粘土細工を押し付けでもしたように唐突に存在する鼻の形ではないでしょうか。鼻の付け根の部分がまるで断崖のように切りたって、顎のしゃくれ具合の不自然さとともに、非常に強い存在感を示しています。
彼の名はフェデリコ・ダ・モンテフェルトロ….現在では、ウルビーノ公という称号で有名な人物です。フェデリコは、1422年、ウルビーノ公家の庶子として誕生しました。彼は表舞台に立つために、おそらく並大抵でない努力をしたと思われます。歴戦の勇士であったフェデリコは武芸の修練を積み、やがて傭兵隊長として辣腕を振るいます。大成した彼は50歳を過ぎてからモンテフェルトロ家の当主として迎えられ、ウルビーノ市は小国ながらもフェデリコの努力によって繁栄の時を迎えるのです。
フェデリコの顔の右半分には大きな傷があったと言われ、右目も視力を失っていたと言われています。それゆえの左半面の肖像画….そう説明されると、この、公爵という貴人でありながらの横向きの肖像にも、深い納得をおぼえます。
しかし、ごつごつとした横顔でありながら、なんと優しく穏やかな目元でしょうか。そして、薄い唇は真一文字に結ばれていますが、もしちょっとでも声をかけたら、すぐにでも温かい微笑みがこぼれそうな錯覚を起こさせるのは何故なのでしょう。男の顔は履歴書….その人物の人柄は、内側から湧き上がってくるものなのだと実感させられます。フェデリコは文武両道に秀でた人物でした。学芸をあつく擁護し、当代最高と言われた図書室を持ち、そこで読書することを何よりの喜びとしたウルビーノ公の知性が、この横顔には深く厳しく沈潜しているようです。
ピエロ・デラ・フランチェスカは、フェレンツェでの修業ののち、アレッツォ、フェッラーラ、リミニ、ローマなどで活躍し、晩年になってからウルビーノ公のもとに迎えられます。ウルビーノ公はもちろん理解あるパトロンでしたから、彼は公のためにいくつもの傑作を残しています。居城を飾るための祭壇画や壁画とともに、この肖像画も公を喜ばせたことでしょう。ピエロらしい的確で典雅な輪郭、規則的で幾何学的な曲線はすがすがしいほどに画家の心を語るようです。大胆な色彩と構図はピエロの見たウルビーノ公を的確に表現したものであり、その対面にはやはり穏やかな表情の公妃バッティスタ・スフォルツァが描かれています。二人の醸し出す優しく毅然とした雰囲気は、背景に広がる田園風景と対比して、見る者の心を鮮やかにとらえます。
ところで、このように、肖像の背景に風景を描く形式は、ネーデルラント絵画の影響から生まれたものだと言われており、当時としては決して珍しいものではありませんでした。それでも、人物の背後に広がる自然の壮大なパノラマは、イタリアの人々にはやはりとても新鮮な感興をもたらしたのでしょう、風景肖像画は15世紀後半から16世紀にかけて、非常によく描かれました。ダ・ヴィンチの『モナ・リザ』も、こうした流行と無縁ではなかったと言われています。
また、人物の真横から描く表現も、「個」の顕彰のためにルネサンスで流行したメダルの図像形式に由来するもので、初期イタリア・ルネサンスの肖像画の特徴とも言われています。しかし、これほどに決定的な印象を与える横顔には、やはり出会うことは少ないような気がします。そこには、生涯にわたってフィレンツェの外で独立画家として活躍したピエロ・デラ・フランチェスカの誇りと自信、そして、ウルビーノ公に対する深い尊敬の念が隠されているような気がします。公をいかに威厳をもって公らしく描くか……画家は考え抜いて、この画面を制作したのではなかったでしょうか。
ただひたすらに比例の整った画面だけを目指したかのような印象のあるピエロですが、彼の絵画の底に確固としていつも存在した人間的な視線、情熱を思い出さずにはいられません。画家は、公妃の後ろに、じつは自らの肖像をもまた心の中で描くほどの想いをこめて敬愛するウルビーノ公に対峙し、そしてこの肖像画を捧げたのではなかったか、と思えてくるのです。
★★★★★★★
フィレンツェ、 ウフィッツィ美術館 蔵