一見すると何が描かれているのか戸惑うのですが、これは「マタイ福音書」の第2章にある聖家族のエジプトへの逃避を描いた作品なのです。ヘロデ王が幼児キリストを捜し出して殺そうとしていることを夢の中で知らされたヨセフは、幼な子イエスとマリアを連れて安全なエジプトへと向かう途中なのです。
星の輝く夜空の下、聖家族は夜を徹して旅路を急いでいます。逃避行が夜の間になされたというのは福音書の記述に従ったものでもあり、聖母マリアは幼児キリストを腕に抱き、ヨセフは二人を乗せた驢馬に付き添っているのだと思われるのですが、エルスハイマーの表現する夜の光景は、それさえも定かには見定められないほどに密やかで静かです。
聖家族の背後には満月を映す穏やかな水面、広い夜空には満点の星々、画面と水平に配されたこんもりとした森、そして彼らの行く手には薪を燃やして野営をしている羊飼いの姿も見え、エルスハイマーが本当に描きたかった主題が、聖家族の逃避行というよりは、この美しく静謐な夜景そのものだったのではないかという気もします。その証拠に、この作品は後にC・H・ハウトによって銅版画にされ、その後の風景画の発展に多大な影響を与えていくのです。
リューベンスやレンブラントも、この作品に触発されたことは言うまでもないことでした。彼の友人でもあったリューベンスは、エルスハイマーがわずか32歳の若さでこの世を去ったとき、その若すぎる死を嘆きました。しかし、この『エジプトへの逃避』もそうですが、銅版に油彩で描かれた彼の作品の多くは、彼の弟子たちの手で銅版画にされ、17世紀の風景画の発展に大きく寄与していくのです。
この作品は、その緻密で繊細な表現を包み込むように、31×41センチと非常に小さなもので、その小さな画面に、これだけの溜息が出るような美しい世界が凝縮されていることに驚かされます。エルスハイマーはもともと本当に小品だけを描く画家で、細密な描写と詩情豊かな夜景表現を好んで描き、名声を得ました。しかし、この優しく美しい作品を見るにつけ、彼がそれほどに名声を望んでいたのだろうか、とふと考えてしまうのです。もちろん、それは私の妄想です。でも、エルスハイマーはただ、この宝石のように精緻で清らかな風景を、自らの心の中から目に見える世界へと、手のぬくもりで写し取りたかっただけなのではないか…という気がしてならないのです。
★★★★★★★
ミュンヘン、 アルテ・ピナコテーク 蔵