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「エッケ・ホモ(この人を見よ)」

ミケランジェロ・カラヴァッジオ (1604-06年ころ)

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 キリストの、まるで眠っているような穏やかな顔が印象的です。茨の冠を頭にのせ、葦でできた笏を手にして王を象徴する姿のキリストからは、なぜか苦痛も憂いも感じられません。
 「この人を見よ」。
そう言って、審問所の外に集まったユダヤの群集に向かってキリストの姿を示すローマ総督ポンテオ・ピラトの人間的な、皺の一本一本まで克明に描き込まれた表情と、このキリストの静けさは対照的です。ピラトは、兵士たちにキリストを鞭打たせ、茨の冠によって嘲弄させました。そして、紫の衣をまとわせ、痛ましい姿のイエスをユダヤ人たちの前へ引き出したのです。

 この作品は、ヨハネによる福音書19:1-16を典拠としたものです。通常は、死刑判決のあとで罪人は兵士たちの手に引き渡され、侮辱を受けるものなのですが、この時ピラトは、有罪が確定していない段階でイエスを鞭打たせたのです。それは、痛々しいイエスを見せつけられれば、無慈悲な祭司長たちも民衆もイエスに同情して、これ以上の仕打ちを望まないに違いない、という計算があったからです。ですから人々に、
「見よ、私はこの人をあなた方の前に引き出すが、それはこの人に何の罪も見出せないことを、あなた方に知ってもらうためである」
と言い放ったのです。
 しかし、ピラトの思惑はみごとに裏切られ、祭司長たちや民衆はイエスを見つけると、
「十字架につけよ、十字架につけよ」
と叫びます。ピラトの必死の表情は、イエスを助けたい一心の形相なのです。

 このテーマは、ルネサンス期に入ってから頻繁に取り上げられるようになりました。たいていは、二つの明確なかたちで描き分けられます。一つはキリスト一人だけの、茨の冠をつけた上半身の礼拝像であり、もう一つは、ピラトの宮廷もしくは審問所のバルコニーにキリストが引き出され、多くの人々を合わせて描かれたものです。しかし、カラヴァッジオの描いた『エッケ・ホモ』は、そのどちらでもありません。目を閉じたキリスト、目を見開いたピラト、そしてキリストに紫の衣を着せかけようとする下役の三人が描かれているのです。

 それにしても、この画面の中の世界はなんと静かで、密閉された空間なのでしょう。カラヴァッジオが実際のモデルを使って、室内で描いていたのがよくわかります。モデルたちの息づかい、室内のちょっとした物音までも、こちらに聞こえてきそうです。そして、この画面にはなんとも優しく、親密な空気が流れています。侮辱の象徴である紫の衣を着せかけようとする男の表情や仕草に、キリストへの深い配慮が感じられるのです。鞭打たれた背中の傷が痛まないように、なるべくそっと着せてあげようという心づかいが伝わります。そして、このお話を知る人は皆、それを感じて、なにかとても救われたような気持ちになるのではないでしょうか。
 この場の空気を優しいものにしている存在がこの下役の男であることを感じるとき、脇役にまでも独特の沈黙、観照性を与えるカラヴァッジオの、緻密で、粗野とは無縁な神経の細やかさを感じずにはいられないのです。

 カラヴァッジオの宗教画は、その徹底した写実のゆえに、品位に欠けるとして非難されることが多かったのは事実でした。しかし、中部イタリアの伝統であった周到な準備のデッサンを用いずに、油彩で直接カンヴァスに描くというヴェネツィア風の方法をとったこともまた、非難の対象となっていたのです。それはまさしく、カラヴァッジオの天才に依るものだったのでしょうが、画家は絵の具の扱い方に研究と努力を重ねて目ざましい進歩を遂げ、世の中の無理解にも屈せず、16世紀後半の宗教画の持つ非現実性を、その劇的な明暗対比とリアリズムによって、再びみずみずしい生命感をもったものとして再生させたと言えるのです。

★★★★★★★
パリ、 ルーヴル美術館 蔵

 <このコメントを書くにあたって参考にさせていただいた書籍>
  ◎イエスの生涯
         高久真一著  日本基督教団出版局 (2000-10-25出版)
  ◎西洋絵画の主題物語〈1〉聖書編
        諸川春樹監修  美術出版社 (1997-03-05出版)
  ◎西洋美術史(カラー版)
        高階秀爾監修  美術出版社 (1990-05-20出版)
  ◎西洋絵画史WHO’S WHO
        諸川春樹監修  美術出版社 (1997-05-20出版)



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