物音一つしない整然とした室内に、向かって左側の窓から差し込む光、そしてテーブルに置かれた鉢植えだけが密やかに息づいています。沈黙しているからこそ見る者それぞれに語りかけてくる、ハンマースホイ晩年の最も完成度が高いと評価されている室内画です。
ヴィルヘルム・ハンマースホイ(1864年5月15日–1916年2月13日)といえば、背を向けた女性が時がとまったようなモノトーンの部屋に佇む作品をまず思い浮かべます。モデルの多くは妻のイーダで、彼は同種の作品を繰り返し描いています。
彼の絵画の大部分は室内風景画ですが、なかでも舞台の多くは1898年から1909年まで暮らしたコペンハーゲンのストランゲーゼ30番地のアパートの室内でした。あまりに繰り返し描かれるので、今ではアパートのどの部屋のどの位置から描かれた作品であるかが正確に特定できるほどとなっています。室内の調度品もテーブルや椅子、陶器のパンチボウル、金属製のストーヴ、ピアノなどお馴染みの品が繰り返し登場します。
ただ、本作品のタイトルに「ブレズゲーゼ25番地」とあるのは、30番地のアパートの所有者がかわったため1909年に引き払い、1913年に筋向いのストランゲーゼ25番地に移ったためなのです。
こうした静謐な室内画が誕生した背景には、デンマークという国のお国柄もあるようです。ハンマースホイが非常に特別な感性を持った画家だったことももちろんですが、そもそもデンマークは魅力的な室内画が多く生み出された国だったのです。
19世紀前半のデンマークはナポレオン戦争の敗北で政治・経済の両面で破綻を迎えていました。そうした社会情勢の中で王侯貴族にかわって富裕な市民階級が力を持ち、文化面においても重要なパトロンとなっていったのです。それに伴い、それまで主要なテーマだった神話画や歴史画にかわって市民の芸術、身近な自然や日常をテーマとした風俗画が好まれるようになっていきました。
中でも屋内をテーマとした室内画は首都コペンハーゲンで人気となりました。多くの優れた画家が登場した関係もあり、家庭的な温かい室内画がデンマーク絵画の主要な一画を占めるジャンルとなったのです。北欧の厳しい寒さの中でも、家族が集まる暖かく居心地のよい部屋は人々の心を明るく幸福にしたに違いありません。
やがて幸福な家庭の象徴として描かれた室内画の主役は、人ではなく部屋そのものに変化していきました。人々は部屋そのものの美しさに魅了されるようになったのです。それは北欧の人々に独特な美意識かもしれません。白いドア、磨き抜かれた床、少数の調度品が、今まで人々が気づかないでいた別の世界の扉を開いたのです。
そんな中でもハンマースホイの世界観は特別でした。人の気配や季節感など一切感じさせない静かで冷たい部屋の中に、たとえ人が描かれていてもそれは作品の中に置かれた一つのパーツのようであり、私たちはただ息を詰めて部屋そのものに引き込まれてしまうのです。色彩も要素も必要最小限に削られた彼の作品にひそやかに息づく美意識は、デンマークの他の室内画の画家たちとも一線を画した独特の侵しがたい宇宙を、永遠の無音とともに提供してくれているのです。
★★★★★★★
スウェーデン マルメ近代美術館蔵
<このコメントを書くにあたって参考にさせていただいた書籍>
◎366日 絵のなかの部屋をめぐる旅
海野 弘著 パイインターナショナル (2021-7-28出版)
◎ヴィルヘルム・ハマスホイ 静寂の詩人 (ToBi selection)
萬屋健司著 東京美術 (2020-1-27出版)
◎ビジュアル年表で読む 西洋絵画
イアン・ザクゼック他著 日経ナショナルジオグラフィック社 (2014-9-11出版)