ルネサンスの偉大な画家 ピエロ・デラ・フランチェスカ(1416/17-1492年)の代表作「キリストの鞭打ち」は、謎の多い作品として知られています。
ローマ帝国の第5代ユダヤ総督ピラトは、これから目の前で起こることは自分の責任ではないと言いたげです。彼の台座の下には、画家のサインがあります。そして、柱に縛りつけられたイエスの表情はうつろで、その両脇には刑の執行人が立っています。しかし、実際には、鞭打ちは行われていません。不思議なことに、執行人たちから、残虐な意思が伝わってこないのです。緊迫した場面でありながら、人々は静かに決められた立ち位置を守っているように見えます。
さらに、もう一人、ターバンを巻いた後ろ向きの男が立っています。彼はトルコ人ではないかと言われていますが、はっきりとはわかりません。いったいどういう意図で、画家はこの男をここに立たせているのでしょう。やはり、すべてが整然として、そして謎めいているのです。
次に、作品の右半分を見たとき、私たちはまた戸惑いをおぼえます。この3人の人物は一体だれなのでしょうか。一説では、キリストを裏切ったユダの後悔の念が表現されているとも言われています。しかし、手に入れたはずの銀貨は見当たりません。それに、背景の雰囲気から考えても、彼らはこの作品の描かれた時代の人々のように思われます。
実はこの作品には、すでに失われていますが、「結びつく」という意味のラテン語の書かれた額がついていました。一体、だれとだれが結びつくというのでしょう。もしかすると、向かって左側はイエスに死をもたらす人々、そして右側には、この作品が描かれた当時のイタリアの統治者が象徴されているのかもしれません。昔も今も、似たような迫害が行われていると告発しているのでしょうか。一方、右側の3人は、イエスの敵であったトルコ人からイエスの身を守るため、ここで監視しているのだという説もあるといいます。
ところで、重要な鞭打ちの場面よりも3人の人物を大きく描く表現は、中世であったら考えられないことでした。しかし、ルネサンス期の画家たちは遠近法を駆使して描くようになっていました。ルネサンス美術における最も重要な発明は、遠近法であったと断言してもいいでしょう。平面に三次元を再現するこの技法によって、画家は見る者を画面の中に実感をもって引き込む力を得たのです。ですから、重要でない人物であっても近くにいれば、大きく描くことが当然であったわけです。
さらによく観察すると、死刑執行人の上げた腕の脇あたりを消失点として、放射状の線がきれいに描けること、また、イエスの位置と、右側の赤い服の中心人物が、中央の柱から同じ距離に立っていることがわかります。さらに、二人はほぼ同じポーズをとっており、同じように表情はうつろです。イエスの時代と現代を融合させながら、細かいところまでみごとに計算された画面が構築されているのです。
ピエロ・デラ・フランチェスカは、遠近法の基礎となる幾何学的な法則を作り上げ、ゆるぎない厳格さと明快な色彩、光を融合させた詩情あふれる美しい画面を実現させた画家でした。彼の持つ合理的な空間感覚と清澄な光が、この謎だらけの不思議な作品に、従来にはなかった新しい物語を与えたようにも感じられるのです。
★★★★★★★
ウルビーノ、マルケ国立美術館 蔵
<このコメントを書くにあたって参考にさせていただいた書籍>
◎西洋美術館
小学館 (1999-12-10出版)
◎キリスト教美術図典
柳宗玄・中森義宗編 吉川弘文館 (1990-09-01出版)
◎西洋絵画の主題物語〈1〉聖書編
諸川春樹監修 美術出版社 (1997-03-05出版)
◎西洋美術史(カラー版)
高階秀爾監修 美術出版社 (1990-05-20出版)
◎西洋絵画史WHO’S WHO
諸川春樹監修 美術出版社 (1997-05-20出版)