エジプトの女王クレオパトラを主題とした作品は、コブラに身を咬ませて自ら命を絶つ場面とともに、その美貌と贅を尽くした饗応の様子をテーマに据えて描かれることが多いように思います。しかし、その大部分は空想的な伝説であることが多く、この作品も、そんな物語の一つです。
女王の饗宴に招かれたローマの将軍アントニウスは、その豪華さに驚嘆します。それに対してクレオパトラは、身につけていた値段のつけようもないほどに貴重な真珠のイヤリングをはずし、杯の葡萄酒に落として飲み干したといいます。富には無関心であることを示したのです。
場面は、まさに女王が真珠を杯に落とそうとする一瞬…..人々の視線は彼女の指先に集中します。場所はクレオパトラの宮殿。女王はアントニウスとともに食卓についており、こちら側を向いて座っているのはアントニウスの同僚で赤鬚のエノバルブスです。人々が次に起こる出来事に気持ちを集中するなか、召使いたちは給仕に余念がありません。ザワザワとした宮殿のなかに真空のような空間が生まれたようです。
17世紀バロックの時代、ローマやボローニャには多くの大画家が活躍していましたが、ヴェネツィアには大芸術家というほどの人物は出ていませんでした。しかし18世紀に入って、一人の天才が現れたのです。それがジョヴァンニ・バッティスタ・ティエポロでした。
ティエポロは、盛期ルネサンスを思わせる大画面絵画の比類なき名手であり、その旺盛な制作力によって、同時代の最も華やかで需要の多い画家となりました。彼によって、イタリアの装飾絵画の壮麗さは集大成されたと言っても過言ではなかったでしょう。ヴェネツィアの有力貴族たちの邸宅や別荘は、ティエポロの手になる壁画や天井画で飾られていきました。強靱なデッサン力に裏打ちされた、軽快で力のこもった筆さばきと生き生きとした色彩の効果は、他の画家が足元にもおよぶべくもない天才的ひらめきに満ちていたのです。
ティエポロの描く世界は、宗教画、神話画、歴史画、そして物語の世界に限られていたと言っていいと思います。もしかすると、彼は、日常生活などは殆ど絵画のテーマにはなり得ないと思っていたのではないか…と感じるほどです。それほどに、ティエポロが展開して見せてくれる絵画世界はたとえようもないほどに美しく、夢のようで、そして王侯貴族に好まれる高揚感に満ちていました。
しかし、だとしても、ここに見られる、どこか突き抜けたような吹っ切れたような澄明さはいったい何なのでしょう。まるで、ティエポロの眼は、熱狂の向こう側の果てしない空のまた向こうを見つめてでもいるかのようです。クレオパトラも周りの人物たちもみな舞台の上にいるように描かれ、物語の主題とは裏腹に、バロック的なあふれる情熱とは無縁です。ティエポロの持つ、この不思議な澄明感が、おそらく彼の絵を見るたびに抱くハッカ飴のような感じの原因なのだろうという気がします。
★★★★★★★
メルボルン、 ヴィクトリア国立美術館 蔵