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「ゲント祭壇画」

ヒューベルトおよびヤン・ファン・エイク (1432年)

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 この祭壇画は、初期フランドル絵画最大のモニュメントと言われています。作者はヒューベルトとヤンの二人のエイク兄弟であり、今日に至るまで美術史の専門家たちには大きな謎を投げかけ続けています。この343×439cmという巨大祭壇画が制作された経過、そして兄弟のそれぞれがどの部分を担当したのか…など、解明されていないことはまだたくさんあるのです。しかし、美術史家たちがそれを探究していくうちに、ゴシック末期美術の展開が、はっきりと見えてきたことは思わぬ収穫だったと言えるのかも知れません。

 その銘文によれば、兄のヒューベルトによって制作が始められたこの祭壇画は、1432年に弟ヤンによって7年をかけて完成されました。ヒューベルトは1462年に亡くなり、その後をヤンが引き継いだというかたちなのです。基本形はトリプティク…すなわち三枚続きの祭壇画で、中央部およびの二枚の翼部から成っています。この三つの部分はまた別個の4枚のパネルで形成されています。さらに両翼には表裏両面とも絵が描かれていますから、全部で20枚の部分から成っているわけで、さまざまな大きさや形の板絵が組み合わされています。おそらく、最初からそうした形式で計画されていたわけではなかったのでしょう、全部を見渡しても、本当に雄弁ではあるのですが、調和がとれているとは言いがたい構成となっています。

 まず開いた状態で見られる下段の5枚の板絵(左から)が全部で一つの作品を構成しているのがわかります。これはヨハネの黙示録の第7章で示される「仔羊礼賛」の物語を表しているのです。ここで大群衆は玉座と仔羊を礼拝しています。そして、キリストの犠牲の死を象徴する「神秘の仔羊」の胸からほとばしる血が聖杯に注がれ、仔羊は彼らを生命の泉へと導くという重要な場面です。
 一方、この連続し一貫した一つの世界に引き比べ、上段の7枚のパネルはまとまって一枚というわけにはいっていません。中央の3枚は聖母マリアバプテスマのヨハネを左右に置いて、まん中にキリストを表しています。これはもしかすると、最初はこれだけで独立した三枚折の祭壇画として計画されたものだったかも知れません。
 そして、そのに配された音楽を奏でる天使たちの絵も一組になっていますが、やはり対をなすオルガン用の観音開きの扉として、兄のヒューベルトによって計画されたものだったろうと言われています。
 そして、その外側に位置するアダムとエヴァを描いた縦長の2枚のパネルもまた、別の一組ということになりますが、これはヤンがヒューベルトの原画に付け加えたものであろうというのが定説となっています。というのは、この2枚だけが雰囲気が異なること、そしてこの時代のアダムとエヴァを描いたものとしては大胆で、北方の板絵としては最も古いモニュメンタルな裸体画だからなのです。ほとんど等身大で、人間を見つめる確かな観察眼、美しく微妙に交錯した光と陰の表現、裸体でありながら漂う気品…..などから、これが弟ヤンの作品であることはほぼ明白であると言われています。ここに描かれているテーマは、原罪というよりも、神の創造した「人間」そのものの姿なのであり、とても静謐な空気を漂わせ、見守る私たちに現実空間と絵画空間との橋渡しをしてくれているようでもあります。

 次に、翼部を閉じた状態にして、画面全体を見てみることにしましょう。すると、ここに現れる8枚の板絵は、明らかに首尾一貫した、一つのまとまりのある作品となっていて、ヤンがすべて計画していたものであろうことは十分に想像できます。ここでは、一番大きな人物が下段に配されて、非常に安定した印象となっています。二人の聖ヨハネ像()は彫刻に見せかけるため、時が凝縮したような灰色で描かれ、その両側の寄進者その妻は、アダムとエヴァのパネルと同じように別々の板絵に描かれています。個性にあふれたみごとな寄進者の像は、人目を引く位置に配されながら、私たちの期待を裏切りません。写実的な肖像画法についての新たな関心は14世紀の中頃に高まったものですが、1420年ころまではむしろ肖像は彫刻に現れていましたから、この寄進者の肖像がどこか彫刻的なのも、納得のいくところです。
 また、上段には、一目見てわかる、「聖告」()が描かれ、大天使ガブリエルが、本当に天井に届いてしまいそうな大きな存在として表現されています。神秘的でありながら、現実生活の室内で告知が行なわれるのも、いかにも神秘を非常にみじかなものとして描く北方らしい工夫ですが、これもおそらく、上にあって、それぞれに幅の異なる2対のパネルもすべてひっくるめて、一つの部屋で起こったことがらのように演出するためなのです。ヤンは、この中で、遠近法の工夫だけで満足することなく、聖母の部屋の床になんと、パネルの枠の影までも描いているのです。絵画でありながら現実でもあるような….この魅惑的なイリュージョンは非常に興味深く、フランドル写実主義の偉大な画家ヤン・ファン・エイクの天才的なセンスの良さ、深い思惑を感じさせてくれます。ヤンは今でも時空を超えてここに生きている….私たちは、こうした絵画空間と現実空間との微妙な、また直接的な関係の確立を見たとき、つくづくと実感してしまうのです。

 内側の12枚の絵の主題は、アダムとエヴァを除くと、まさしく「キリストの磔刑」です。しかし、全体を包む雰囲気は飽くまでも柔和で、明るく美しく、やさしいものです。悲しみや嘆きといったものは感じられません。光と大気に満ちた美しい風景の眺望に、私たちは新しい絵画様式の展開をすら感じることができます。この『ゲント祭壇画』は、驚くべきことに、風景画、静物画、肖像画などの近代絵画の諸特徴をすべて見ることのできる作品なのです。想像力豊かで熟練したヤンが兄から受け継ぎ完成させたこの仕事は、自然の世界が精神の世界を含み、澄明な光いっぱいの世界へと昇華した、フランドル絵画の揺るぎない一大記念碑なのです。

★★★★★★★
ゲント、 シント・バーフ大聖堂 蔵



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