白い壁に囲まれて、まっすぐにのびる白い小路…その先には、長い長い石段が続きます。そこにはニ、三人の人影が見えますが、彼らは歩を進めるというよりも、前方左にひっそりと立つ街燈と同じように、ただ孤独な影を落としながら、じっとその場に立ち尽くしているような、そんな風情に見えるのです。両側の家々の戸口や鎧戸はひっそりと閉ざされ、時はひそやかに永遠に流れつづけているようです。
いわゆるエコール・ド・パリを代表する画家ユトリロは、一貫して風景を描く画家でした。それも、山でも湖でもない乾いた都会の風景を…。絵の題材としてはなんともものさびた、裏通りや狭い石段、坂道を描き続けたのです。
ユトリロは、ひたすらモンマルトルを愛着をこめて描きましたが、しかし、それはモンマルトルの美しさを謳うためでもなく、誇るわけでもなく…。彼はただ、母を含めた身近な人間たちに、おそらく生涯求め得ることのできなかったものを、慎ましく静かにうつむきながら、都会の片隅にそっともとめたのかも知れません。彼の哀しい魂の旅は、やはりここに羽根を休めることで成就されていったのかも知れないし、そこに登場する人物たちを皆、点景の後ろ姿で描くことで、祈るような均衡が保たれていたのかも知れません。
モーリス・ユトリロが生まれたのは、1883年12月26日、母マリー・クレマンティーヌ・ヴァラドン(通称 シュザンヌ)がまだ16歳のときでした。ヴァラドンはモデルとして生計を立てながら自らも画家としての道を歩み始めたところで、ユトリロの実の父親については、いまでも憶測の域を出ません。そして、のちにヴァラドンは実業家と結婚し、一家はモンマニーに住みますが、パリの中学へ汽車で通学するようになったユトリロは、このころからすでにアルコール中毒となります。アプサントに魅了された彼は、一等の汽車の切符を二等に節約して、それを酒代にあてました。そして生涯、彼はアルコールと宿命的に結ばれ、そして対決してゆくことになるのです。
ユトリロが絵筆をとるようになったのも、もとはと言えばアルコール中毒を治療するために、母ヴァラドンが考えたことでした。居酒屋のカウンターで安酒をあおるか、カンヴァスに向かっているか、あるいは精神病院ないし療養所にいるか….のいずれかの生活を続けながらも、彼の作品にはアプサントの匂いはありません。そこにはただ、清らかな静けさだけが伏目がちにたたずみ、私たちに限りない安堵と安らぎを与え続けてくれているのです。酒の中に捨てきれなかった哀しさや空しさは、「白の時代」と称された作品たちのなかに、家々の閉ざされた窓や扉に、ひっそりと封じ込められているのかも知れません。
「もしもパリを離れ、二度と戻って来られないとしたら、パリから何を持って行くかね?」と聞かれたユトリロは、「漆喰のひとかけらを…」を答えたといいます。ユトリロは、「モンマルトルの煉瓦で、モルタルで、石で、アスファルトやセメントで、彼自身の天国をつくり上げていた」と言われましたが、彼は晩年になってもモンマルトルへの望郷の念を抱き続けました。土くれと漆喰という、決して美しくも珍しくもないものの中にパリを見ていた彼が、旅先のホテルで息を引き取ったときにも、画架の上には心を寄せ続けたモンマルトルの、コルトー街を描いた未完の作品が掛けられていたといいます。
★★★★★★★
パリ、 国立近代美術館 蔵