大きく開かれた天幕の向こうから、ヴェールや衣装のすそに豊かに風をはらみながら、素足で雲を踏んで近づいて来る聖母マリアです。
その腕にはしっかりと幼な児イエスを抱え、どこか上気したような可憐な顔に、瞳は大きく見開かれて、画面の向こうからじっとこちらへ強くやさしい決意を示してくれているようです。言うなれば運命の海を進む船のようなマリアに抱かれたイエスも、天への捧げものとしての自己の運命を見透し、幼いながら、その目はただ一点を見つめています。天使によって昇天したあとも、聖母マリアは日々、神の子イエスを抱いて私たちを訪ねてくる・・・そういう存在としてのマリアがここに描かれているのです。
イタリア・ルネサンスを飾るマドンナの画家として不朽の名を持つラファエロの描いたマリアの中でも、極めつきの聖母像と言えます。ラファエロは実は、「至上のヴィーナスの作者であった」というクラークの説があります。しかし、もしかしたら時代は彼に、ヴィーナスの対極である聖母の画家たらしめたのかも知れません。
またヴァザーリは、「彼はどうしても巨匠の域に達することはできなかった・・」と書いています。ラファエロが天才に必須の詩的霊感からは見放された天才であったと言いたいのかもしれません。たしかに、ダ・ヴィンチの微妙な遠心的な線の広がり、ミケランジェロの求心的な魂の本質の追求という緊張感・・・そういったものをラファエロの作品は感じさせないかもしれません。彼の絵画は本当に美しく、だれにでも優しく語りかけてきます。しかし、だからといって絶対的な美の霊感がラファエロ欠けていたと誰が言えるでしょうか。ラファエロほどルネサンス的教養を身につけ、時代の要請を我が要請とした画家はいなかったのではないでしょうか。だからこそ今日、ラファエロの描く自らを主張しない聖母の美しさに、私たちは自分自身のさまざまな想いを重ね合わせることができ、それゆえに無条件に惹かれるのではないでしょうか。
私たちは、画面下の二人の小天使のように、無心な眼で驚異に満ちてラファエロの描いた聖母子を見上げ、受諾し、こんなに美しい作品をラファエロの手を通して神から与えられているのだ・・・と、あらためて実感することができるのです。
★★★★★★★
ドレスデン 国立美術館蔵