「さあ、耳を澄ましてご覧なさい。何が聞こえるかしら?」
優しいお母さんにうながされて耳に当てた貝殻の音を聴き分けようと、少女はちょっと眉根を寄せ、真剣な表情で動きを止めます。子供にとっては、お母さんから与えられる課題は全て大切なお仕事….ドキドキしながら神様の声を待ちます。
この微笑ましく可愛らしい絵は、19世紀後半のフランスの官展派を代表する画家、アドルフ・ウィリアム・ブーグローの作品です。彼は滑らかに仕上げられた甘美な作風の神話画、宗教画、そして肖像画を数多く残していますが、この作品はそのうちの一つ、少女のあどけなさ、可愛らしさ、そして賢そうな表情がとても印象的な美しい作品です。
ブーグローは、1888年にはエコール・デ・ボザールの教授となった実力者で、アカデミズムの影響を受け継ぎ、古典作品をそのまま当世風にアレンジしたような親しみやすさを感じさせる作風の画家です。有名な『母と子』などは、ラファエロの『小椅子の聖母』を思わせる輝きに満ちて、彼の伸びやかな実力を十分に感じさせてくれるものです。
ところで、古来、貝殻は美の女神ウェヌス(ヴィーナス)の持ち物とされてきました。彼女は海の生まれで、貝殻に乗って岸に漂着するのです。また、ルネサンス以降の美術では、広く巡礼者一般を示すためにも用いられ、旅する聖人ロクスの持ち物ともされています。
将来はきっとウェヌスのような美しい乙女に成長するであろう少女の耳に貝殻を当てながら、これもまだ年若く美しい母親は、我が子のこれからの遠い未来を想います。そして、まだまだ幼い少女は、母の優しいぬくもりを背中に十分感じながら、安心してじっと耳を澄まし続けるのです。
★★★★★★★
個人蔵