すこーしポーズするのに疲れたような表情で、こちらを…というより画家を見つめている可憐な少女…。彼女は銀行家W・C・アレクサンダーの次女シスリーです。
なかなかしっかりした美しい目鼻立ちですが、当時6~7歳ということで、やはりまだモデルとしてじっとしているのは楽しい仕事ではなかったようです。シスリーは完成までに約70回もモデルをつとめたということですが、
「モデルになっている間中、生け贄になっているんだと思っていたような気がするわ。彼はちっともポーズを変えさせてくれなかったから。だから、私はくたくたになって駄々をこねたり、泣き出したりしたものよ」
と、のちに当時の思い出を語っています。
たしかに、その口元は今にも画家に文句を言い出しそうに見えますが、そんな彼女の気の強さがこの落ち着いた画面をキラッと引き締め、清冽な印象にしてくれているのだと思います。
白と黒としっとりしたモスグリーンの階調のなかで、水平線と垂直線の整然とした構図がいかにもホイッスラー好みの美しさですが、その中で、シスリーが少し前に出した左足や、彼女が手にした帽子の羽根飾りのふんわりとした動きが、優しい息づかいを感じさせてくれます。
また、ここでも気がつくのは、ホイッスラーの東洋への興味の深さでしょう。室内であるのに、ヒラヒラと舞っている蝶々、ソファに掛けられた着物とおもわれる薄衣、そして半分だけ顔を見せている団扇…。 それらは、この作品にとても不思議なたおやかさを加味しているのです。
これには、ダンテ・ガブリエル・ロセッティやバーン・ジョーンズをはじめとするロセッティ・サークルの影響が大きいとおもわれます。ラファエル前派解散以後の一派の発信する流行を、ホイッスラーは敏感に察知していましたが、1867年3月、チェルシーのロセッティ邸のすぐ近くに居を移したことで、サークルとの交流にはさらに親密さを増していきました。
1860年代初頭からロセッティの周辺では東洋陶磁器の収集熱が高まっていましたし、ホイッスラーじしんも、パリで北斎の発見者とされるA・ドラートルやF・ブラックモンとの親交を通して日本の美術品の美しさに開眼していました。やがてホイッスラーは、ロセッティらと競うように東洋の美術品収集に情熱をかたむけ、『磁器の国の姫君』や『黄金屏風』といった色濃い日本趣味の作品を次々に制作していくことになるのです。
しかし、日本趣味だけでなく、唯美主義的意識もまた十分にロセッティ派と共鳴したホイッスラーは、まず何をおいても芸術のための芸術が優先されるべきで、その他の一切は些事に過ぎない….とさえ言い切る一派にちからを得て、自らのこころが見たシスリー嬢を、納得のゆくまで時間をかけて描いたのです。
★★★★★★★
ロンドン 、 テイトギャラリー蔵