あまりの愛らしさに、多くの人が溜め息をついたに違いありません。シャボン玉の行方を目で追う巻き毛の少年の、真剣で汚れのない姿に魅せられない大人はいないでしょう。
この愛らしい作品のモデルは、画家の4歳の孫でした。少年の着ている当時流行の晴れ着は、『小公子』の主人公の名前をとって「フォントルロイ・スーツ」と呼ばれたものです。それこそ目に入れても痛くないといった、大画家ミレイのおじいちゃんぶりが垣間見えるようです。
「いい子だね。ちょっとじっとしてなさい」
と言っても、恐らくひとときも温和しくモデルになってくれない彼に、シャボン玉作りの道具を与えて、やっと描いた奇跡の1枚……かもしれません。
ところで、ミレイはこの作品を純粋に孫の肖像画として描きました。ところが、この絵を購入したパール石鹸という会社は、複製にロゴマークと石鹸の絵を加えて宣伝用のポスターにしてしまいました。意図と違う扱いを受けたミレイは大いに憤慨したようでしたが、複製権はすでに手放しており、訴訟には至らなかったということです。しかし、そのおかげでミレイの作品中、最も知られる一作となったのです。
ジョン・エヴァレット・ミレイ(1829-96年)は、サザンプトンの裕福な家庭に生まれ、フランス近くのジャージー島で育ちました。しかし、幼いときから天賦の画才を示したことで、両親は息子の才能を伸ばすためにロンドンに居を移します。そして、みごとに期待に応えたミレイはロイヤル・アカデミーへの最年少での入学を果たすのです。その上、のちにロセッティが「天使のような顔」と評したほどの美少年だったといいますから、まさに神に選ばれた少年だったと言えます。
そんな神童ミレイが、ただ一度寄り道したのがラファエル前派だったといえます。1848年、ダンテ・ガブリエル・ロセッティ、ウィリアム・ホルマン・ハントらとともに「ラファエル前派同盟」を結成したのです。彼らは、古くさく形骸化したアカデミーを批判し、絵画の革新を目指したのです。それは、ルネサンスの巨匠ラファエッロ以前の伸びやかで素朴で自然な絵画芸術であり、崇高で道徳的な境地でした。アカデミーの申し子のようなミレイだったからこそ、そんな寄り道が必要だったのかもしれません。
しかし、やがて「オフィーリア」の成功で名声を得たミレイは、1853年にロイヤル・アカデミーの準会員に選ばれ、以降はラファエル前派とは距離を置くようになります。彼は、大衆向けのロマンティックな主題や子供をテーマとした絵、肖像画などに専念することになるのです。それはもしかすると、画家の理想とは少し違う方向だったかもしれません。しかし、ミレイは当代きっての人気画家となっていきました。
ミレイがロイヤル・アカデミーの準会員に選ばれたとき、ロセッティは妹に手紙を書き送り、こう述べています。
「ここに至って円卓の騎士たちは解体した」。
ラファエル前派の消滅に落胆するロセッティの姿が目に浮かぶようです。
しかし、実のところ、世間に見捨てられたような晩年を迎えるロセッティには、仲間だったミレイの成功がただただ妬ましかったのだという説もあるようです。
★★★★★★★
ロンドン、 エリーダ・ギブス・コレクション 蔵
<このコメントを書くにあたって参考にさせていただいた書籍>
◎西洋美術館
小学館 (1999-12-10出版)
◎西洋美術史(カラー版)
高階秀爾監修 美術出版社 (1990-05-20出版)
◎オックスフォ-ド西洋美術事典
佐々木英也著 講談社(1989-06出版)
◎週刊美術館「ロセッティ ミレイ」
小学館(2000-6-13出版)