何の飾りもまとわない、シンプルなプロフィールの肖像です。口元に少しだけ笑みをたたえているようにも見え、この人物の穏やかな人柄が感じられます。彼はフランス・ヴァロワ朝の第2代国王ジャン2世(在位:1350年 – 1364年)とみられ、善良王とも呼ばれた人物です。不精ひげなども見てとれる質素な肖像ですが、作品の上部に「フランス王ジャン」と銘文があります。これが描かれたころはまだ無冠であったため、即位前の若いころのものと言われています。
作品は板に油彩で描かれており、特筆すべきは独立の肖像としては最古の板絵であるということです。中世絵画に特有の金地を背景に側面から描かれていますが、こうした横顔表現は古代のメダルやカメオにルーツがあります。横顔で描くことで威厳や大きさを表現できると考えられ、支配者の力を普遍化する手段であったわけです。
しかしこの作品のジャン2世は権力者というより、もっともっと人間的な魅力にあふれています。鋭い目、大きな鼻、少ししゃくれた顎は個人の外観的特徴を的確に捉えており、彼の性格や声までも感じられるほどです。14世紀中葉、既にこうした描写に到達していた画家が存在したことは、プロト・ルネサンスの持つ力強さと言えるのかもしれません。
14世紀半ばのフランスは非常に困難な時代を迎えていました。まず、ペストの大流行です。ジャン2世自身も最初の妻ボンヌ・ド・リュクサンブールをペストで亡くしています。さらにエティエンヌ・マルセルによる内乱、そしてイングランドとの百年戦争の渦中にありました。ジャン2世は父王フィリップ6世の遺志を継いでイングランドに対抗し、1355年、エドワード黒太子率いるイングランド軍がギュイエンヌに侵攻してくると、王太子である長子シャルルと共に出陣し、翌1356年にポワティエの戦いで惨敗、自身は捕虜となってしまいます。その後フランスは、王太子シャルルが摂政として統治しています。
ところが面白いのはここからで、当時の王族や戦争の優雅さなのでしょうか、ジャン2世はエドワード黒太子から手厚い処遇を受けているのです。舞踏会や狩猟、さらにイングランド国内の旅行まで許されていたといいます。そして1360年にはブレティニー条約が結ばれて百年戦争の第一段階が終わり、2男のアンジュー公ルイがかわりに人質になることでジャン2世は解放されます。
ところがこのルイが脱走してイングランドに帰ってしまったため、人がいいというか約束を守る男というか、ジャン2世はやむなく再びイングランドに渡り、1364年にロンドンにて虜囚のまま没してしまうのです。王がみずから再び捕虜となったことをフランス国民はどう思ったでしょうか。想像ではありますが、そうとうショックを受け、「なに勝手なことをやってくれるんだ」と怒り狂ったのではないかと思われます。そのために、また莫大な保証金が民衆の税金から捻出されることとなりました。その後はシャルル王太子が継ぎ、賢明王と呼ばれたといいます。
ところで、13世紀の終わりごろ、肖像画は新しい時代を迎えていました。そして14世紀に入ると、ジョットやシモネ・マルティーニなどの画家は個性ある人物表現を追求するようになります。ルネサンス絵画へ近づいてきたわけです。その動きの延長線上にこの肖像画は存在します。
この作品は横顔の肖像ですが、同時期には斜め正面(4分の3正面)の肖像も多くなってきます。4分の3正面であれば、本人の顔がより明確にわかりますから、人物の個性も生き生きと伝わることになります。さらに背景が黒一色のものも多くなりました。黒の背景であれば、個人の印象をインパクトをもって浮き上がらせることができます。
金箔と横顔の組み合わせ、4分の3正面と黒の背景の組み合わせ、この二つのプロトタイプ(原型)が同時期に存在していたことになります。イタリアでは横顔が主流、フランドルやフランスでは比較的4分の3正面の肖像が多く見られたようです。
★★★★★★★
パリ ルーヴル美術館 蔵
<このコメントを書くにあたって参考にさせていただいた書籍>
◎世界美術大全集 西洋編〈第14巻〉/北方ルネサンス
小学館 (1995-07出版)
◎ビジュアル年表で読む 西洋絵画
イアン・ザクゼック他著 日経ナショナルジオグラフィック社 (2014-9-11出版)