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「トビトの治癒」

ベルナルド・ストロッツィ(1632年)

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 失明していたトビトは、息子トビアスの持ち帰った魚の肝臓と胆のうを用いた治療によって、光を取り戻そうとしています。傍らにはトビトの妻、愛犬も心配そうに見守っています。内蔵を抜かれた大きな魚がちょっと痛々しい姿となっていますが。そして治療法を伝授する大天使ラファエルは、本来なら治療が終わってから正体を明かすはずが、既に大きな羽根を広げてしまっています。
 

 『旧約聖書』の「トビアス書」に基づいた作品です。この物語は、ユダヤ教、キリスト教、そしてイスラム教にも登場します。
 ユダヤ人のトビトは、貧困の中でも正直に生きた信仰心厚い人物でした。その息子のトビアスは父を大切にし、その生き方を手本としていました。トビトはアッシリア王による暴政と困難な状況の中で、過去に目を傷つけられて視力を失っていたのですが、神の助けを信じて祈りの日々を送っていました。そして自らの死期が近いことを感じ、息子に薬を探しに行くようにと頼んだのです。
 トビアスが旅に出る決心をしたとき、神は大天使ラファエルを旅に同行させることを決めます。ラファエルは人間の姿で現れ、トビアスの優れたアドバイザーとなってくれました。
 2人が川を渡ろうとした際、トビアスは大きな魚に遭遇します。予想外の大きさに慌てるトビアスに、大天使ラファエルは魚を捕え、その肝臓、胆のう、心臓を取り出して保存するようにと指示します。後に、この魚の肝臓と胆のうが、トビアスの父親トビトの目の治療に使われることになります。特に肝臓は強い香りがあり、それを炊き込むことで視力回復の助けとなりました。心臓は、後に悪霊を追い払うために使われます。
 旅の途中、トビアスはサラという女性に出会います。サラは、悪霊に取り憑かれていたため、何度も結婚相手を失っていましたが、大天使ラファエルの助けを借りて、トビアスと結婚することになります。
 そしてトビアスと大天使ラファエルは無事に必要な薬を持ち帰ります。魚の肝臓と胆のうから作られた薬によって、トビアスの父親は視力を回復し、再び家族の顔を見ることができるようになりました。
 トビアスは大天使ラファエルに感謝の言葉を贈ります。するとラファエルは自分が天使であることを明かし、神からの使命を果たしたと伝え、一家に祝福を授けたのです。
 

 この物語の中で、トビトの失明は単なる偶然の出来事ではなく、神の試練、そしてその後の救済という一連の流れへのきっかけになっています。神は試練を与える一方で、それを乗り越える力と癒しをも与える慈愛と奇跡の象徴となっているのです。トビトの目の回復は物理的な癒しだけでなく、信仰による霊的な癒しも表現されているのです。
 

 この動きのある場面を速い筆致で表現した画家は、イタリア・バロックの画家ベルナルド・ストロッツィ(1581年 – 1644年)です。豊かな色彩、生き生きとした光の使い方で高い評価を得、後の時代の画家にも多大な影響を与えたことで知られています。
 トビトに話しかけながら治療を施すトビアス、その彼の肩に手を置き、「落ち着いて」とでもアドバイスしている様子の大天使がトビアスと同じぐらいの年頃に描かれているのも鑑賞者の心をほっこりさせてくれます。こうした人間観察もまた、ストロッツィの魅力といえます。
 ストロッツィは当初、カプチン・フランシスコ修道会の修道士として修行を始めましたが、1610年に父親が死んだ後、母親と妹を養うために許しを得て修道会を離れ、画家に転向し、最終的には芸術家としての名声を確立しました。バロック・ジェノヴァ派は17世紀に活躍したイタリアの画派ですが、ストロッツィはその中心的な人物でした。フランドル絵画の様式にならった大まかで動きのある筆跡や大らかな色彩も、彼の魅力でした。
 ジェノヴァはこの時期、ヴェネツィアやローマに次ぐ重要な芸術の中心地でもありましたから、多くの芸術家が活躍していました。そんななか、ストロッツィはその生涯の中で多くの宗教的または装飾的な絵画を制作しました。同時にその作品の多くは、ジェノヴァの上流階級や教会に向けたものでした。そのため、彼の作品はしばしば荘厳で優雅な雰囲気を持ったものとなっています。また、バロックという時代独特のドラマティックな光と影の使い方や豊かな色彩は多くの人を魅了し続け、ストロッツィの絵画は現在でも多くの美術館やギャラリーで見ることができます。
 ところで興味深い逸話として、1630年頃に母親が亡くなった後、カプチン修道会は修道会に戻るように要請したようです。しかしストロッツィは拒否したために裁判になり、投獄されることとなりました。そのため、1631年にジェノヴァを逃れ、ヴェネツィアに居を移しました。そして、その後も多くの有力な人物の肖像を描いて名声を得たこともあり、1635年に修道会と和解したと記録されています。

 

★★★★★★★
 サンクトペテルブルク、 エルミタージュ美術館 蔵 
 

 <このコメントを書くにあたって参考にさせていただいた書籍>
  ◎西洋美術史(美術出版ライブラリー 歴史編)
       秋山聰(監修)、田中正之(監修)  美術出版社 (2021-12-21出版)
  ◎改訂版 西洋・日本美術史の基本
       美術検定実行委員会 (編集)  美術出版社 (2014-5-19出版)
  ◎西洋美術館
       小学館 (1999-12-10出版)
  ◎世界のビジネスエリートが身につける教養「西洋美術史」
       木村 泰司 著  ダイヤモンド社 (2017-10-5出版)
  ◎超絶技巧の西洋美術史
       池上 英洋, 青野 尚子 著  新星出版社 (2022-12-15出版)



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