光り輝く赤子といえば、まず間違いなくイエス・キリストの降誕時を思い起こします。しかし、この頭部から発火しているのではないかと思われるほどの輝きを見せている赤ちゃんは、あのモーセなのです。みごとな髭と白髪のモーセしか思い浮かばない私たちにとって、赤ちゃんモーセは新鮮です。実は、モーセにも、キリストに劣らないほどの苦難に満ちた幼少体験があったのです。
それは、旧約聖書の中の出エジプト記の逸話に見ることができます。
エジプト国内にイスラエル人の数が増えることを恐れたファラオは、男子が生まれたときには、すぐにすべてを殺すようにと助産婦に命じました。しかし、神を畏れる助産婦はその命令にそむき、怒ったファラオが質すと、
「ヘブライ人の女はエジプト人の女とは違ってとても丈夫なので、私たちが行く前に産んでしまうのです」
などと言い逃れていました。
怒ったファラオは、全国民に命じました。
「生まれた男の子は、一人残らずナイル川に放り込め。女の子は皆、生かしておけ」。
レビ家の出のある男が同じレビ人の娘を娶った。
彼女は身ごもり、男の子を産んだが、その子が
可愛いかったのを見て、3カ月の間隠しておいた。
しかし、もはや隠しきれなくなったので、パピルスの
籠を用意し、アスファルトとピッチで防水し、
その中に男の子を入れ、ナイル河畔の葦の茂みの
間に置いた。
(出エジプト記 2章1~3節)
この場面は、まさに今、川岸の葦の中に置かれた赤子のモーセです。母が編んだパピルスの籠の中で、安心しきって眠っています。しかし、「栴檀(せんだん)は双葉より芳(かんば)し」の故事ではありませんが、隠しようのない光輪が、すでに神に愛された者のあかしとして頭部を輝かせているのです。
それにしても、なんと可愛らしい赤ちゃんでしょう。両親が一縷の望みを託してパピルスの籠を用意した気持ちが痛いほどわかります。当時のファラオの手前勝手な政策には唖然とするばかりですが……。
ギュスターブ・モロー(1826-1898年)は、20世紀初頭の前衛美術に先駆け、独特な美意識に満ちた作品を描いたフランス象徴主義の画家として知られています。彼の作品は、ギリシア・ローマ神話や聖書をテーマとしたものが圧倒的に多いのですが、そこには、画家個人の思想や空想を背景にした独特で豊かな世界観が広がっています。
また、制作手法は、ほぼ同時代の印象派の画家たちによる、現実をありのままに表現したものとは対極に位置するものでした。モローにとって、時代の流れなど、彼一人の充溢した画室での制作に比べれば、ほとんど意味を持たないものだったかもしれません。長いあいだ軽視されていた神話的世界を、古代の幻想を交えてロマン主義的に追求することこそ、モローの興味のすべてだったように思われます。そして、その華やかで妖艶な色彩と細密な描写は、後世の画家に多大な影響を与え続けているのです。モローの作品には文学的イメージが強いため、当時の文学者たちの想像力をもまた、強く刺激し続けたようです。
モローの場合、彼の世界観を遺憾なく発揮するために、その家庭環境はあまりにも幸運であったと言わざるを得ません。パリの富裕な建築家の息子に生まれ、終生独身だったモローは、絵を売らねばならないという煩雑な悩みとも無縁でした。そして、孤高の画家という印象は強いものの、1888年に美術アカデミー会員に選出され、1891年からはエコール・デ・ボザール(国立美術学校)の教授となっています。そこで、20世紀を代表するジョルジュ・ルオーやフォーヴィスムの画家アンリ・マティスらを教えていることもまた、モローの別な顔を感じさせるものです。
ところで、1878年のパリ万博に出品されたこの美しい作品は、通常の同じテーマを扱ったもとは明らかに趣を異にしています。背景には、半ば廃墟と化したエジプトの神殿や石像と思われるスフィンクスの姿が描かれていて、いかにも画家の異国趣味が投影されているのが感じられます。そこには、19世紀フランスでの東洋ブーム、エジプト学の発展などの時代背景も垣間見えるようです。
モーセの周囲に描き込まれた花々の豪奢な表現、廃墟の向こうの空の繊細な美しさには、見る者の胸を震わせるようなモローらしさが感じられます。
逸話はこのあと、水浴びをしようと川に下りてきたファラオの王女によって、モーセが救われる展開を迎えます。しかも、モーセの姉の機転によって、実の母が乳母に任命され、モーセは王女の子として迎えられます。「モーセ」の名は、「水の中から引き上げられた(マーシャー)」から付けられたのです。
★★★★★★★
ケンブリッジ、 ハーヴァード大学フォッグ美術館 蔵
<このコメントを書くにあたって参考にさせていただいた書籍>
◎すぐわかる画家別幻想美術の見かた
千足 伸行監修 東京美術 (2004/11/20 出版)
◎西洋美術館
小学館 (1999-12-10出版)
◎西洋美術史(カラー版)
高階秀爾監修 美術出版社 (1990-05-20出版)
◎オックスフォ-ド西洋美術事典
佐々木英也著 講談社 1989/06出版 (1989-06出版)
◎アートバイブル
町田俊之著 日本聖書協会 (2003/03/15 出版)