ハルピュイア…という聞き慣れない名前は、聖母が立っている台座に彫られた怪物に由来しています。ハルピュイアとは、鳥の身体に女性の顔を持つ怪物とされ、ギリシャ神話では、「かすめとる者」「むしりとる者」を表し、貪欲の象徴とされているのです。聖母子をそんな台座に立たせるとは….アンドレア・デル・サルトもなんて大胆な…と驚いてしまいますが、この深みのある甘美な画面は、そんなことはどうでもよくなってしまうほどに魅惑的で、登場人物たちの美しさにも、ただひたすら魅了されてしまいます。
アンドレア・デル・サルトは本名をアンドレア・ドメニコ・ダーニョロといいましたが、仕立屋(sarto)の息子であったため、現在でもこの呼び名で呼ばれています。彼は16世紀前半のフィレンツェの代表的な画家であり、卓越した構図、創意は多くの美術史家にも高く評価されています。どうしても、ミケランジェロやラファエロといった同時代の巨匠たちの陰に隠れた感は否めないのですが、アンドレア・デル・サルトの独自さ、優美さと調和のとれた画風は、フィレンツェにおける「古典美術」の最大の代表者と言っても過言ではありませんでした。殊に素描に優れた才能を発揮し、ヴァザーリをして「誤りなき画家」と評させたほどでした。
しかし、聖母にしがみつく天使たちの、ややこちらを不安をさせるような、単に可愛らしいとは言い難い表情、色彩のあまりの鮮やかさを見たとき、私たちはふとマニエリスムの画家たちの作品を連想します。聖母の表情もどこか陰鬱で、優しい穏やかさには遠いものがあります。たしかに、ロッソ・フィオレンティーノやポントルモは彼の弟子でした。彼の偉大な弟子ポントルモのマニエリスム的特徴は、じつはすでに師であるアンドレア・デル・サルトの芸術のなかに予兆されていたと言えるでしょう。夢見るような漆黒の瞳を持った聖母は、たしかに新しい予感を十分にはらんだ、魅力的なマドンナなのです。
ところで、この美しい聖母のモデルは、彼の妻であったと言われています。ヴァザーリによると、アンドレア・デル・サルトは、悪妻の尻に敷かれた気弱な男…ということにさえなっているようです。しかし、悪妻であろうとなかろうと、彼女の美しさは絶大で、今日もなお、鑑賞する私たちの心を引きつけてやまないのです。
★★★★★★★
フィレンツェ、 ウフィッツィ美術館 蔵