水平線にかすかに見えるのはテセウスを乗せた船です。画面の左でアリアドネは思わず手をかざし、悲しみとともにそれを見送るばかりです。
『バッカスとアリアドネ』の物語は、古代ローマ時代の詩人カトゥルスとオウィディウスの詩文をもとに語られました。クレタの王女アリアドネは、牛頭人身の怪物ミノタウロスへの生贄としてみずからクレタに乗り込んできたアテナイの王子テセウスに恋をします。そしてテセウスの怪物退治を手助けし、ともにクレタを脱出するのです。ところがテセウスは彼女を見捨てたのか見失ったのか説はいろいろありますが、ともかくナクソス島に置き去りにしてしまいます。背中を見せるアリアドネは悲しみと絶望でいっぱい……なのですが、そこに戦車に乗った酒神バッカスが飛び出してきたため、どちらかといえばびっくりした表情で彼を見詰めているという図となっています。
それにしてもバッカス一行は、ワイワイガヤガヤ賑やかです。まさに飲めや歌えの大騒ぎというところでしょうか。画面右手前でヘビに巻き付かれている人物は、1506年にローマで発見された古代彫刻の「ラオコーン像」を想起させます。そして中央下の子供の姿、半人半獣のサテュロスにキャバリア犬がほえかかっていますが、これはティツィアーノの他の多くの作品にも登場します。当時のイタリア王宮の愛玩犬だったのでしょう。さらにアリアドネの足元の黄金の壷には、ティツィアーノ自身のサイン (TICIANVS) がさりげなく入っているわけです。
画面は右上から左下へ斜めの二つの三角形に分割された構成となっています。左側の空は当時非常に高価だったラピスラズリで美しく豊かな青に彩られ、アリアドネ、バッカスの躍動的な姿が描かれています。そして右側の賑やかな一行の大部分はグリーンとブラウンで表現され、その多彩な色遣いの輝き、鮮やかさには目を奪われます。
ところでアリアドネの美しさに魅了されたバッカスは、ある意味調子に乗ってアリアドネの宝冠をつかんでやおら上空に投げ上げます。するとその宝冠は、即座に彼女の頭上で星座となるのです。ここに二人の結婚が予告されたわけです。画面左上を見上げると、輝く星が輪をつくって白い星座となっているのがわかります。一つの画面に多くの物語が描き込まれ、見る者の目はくぎ付けとなります。
作者ヴェチェッリオ・ティツィアーノ(1488/90-1576)は16世紀ヴェネツィア絵画最大の画家です。ジョルジョーネと共にベッリーニ工房で学んだ後、早世したジョルジョーネの詩的な感性を継承したと言われています。しかしティツィアーノはジョルジョーネにはなかった激しい動的感性を持った画家でした。輪郭線にとらわれない斬新な色彩主義こそを真骨頂として活躍するようになります。空を覆うウルトラマリンブルー、バッカスのピンクのマント、アリアドネの青いローブと赤いスカーフなど、色彩画家ティツィアーノの自由な感性は生き生きと画面を飛び回っているようです。
★★★★★★★
ロンドン、 ナショナル・ギャラリー 蔵
<このコメントを書くにあたって参考にさせていただいた書籍>
◎イタリア・ルネサンスの巨匠たち―ヴェネツィアの画家〈24〉/ティツィアーノ
フィリッポ・ペドロッコ著 東京書籍 (1995-05-25出版)
◎絵画を読む―イコノロジー入門
若桑みどり著 日本放送出版協会 (1993-08-01出版)
◎ルネサンス美術館
石鍋真澄監修 小学館 (2008-10-24出版)
◎オックスフォ-ド西洋美術事典
佐々木英也著 講談社 1989/06出版 (1989-06出版)
◎イタリア絵画
ステファノ・ズッフィ編、宮下規久朗訳 日本経済新聞社 (2001/02出版)