「ピエタ」とは、「哀悼」という意味を持つ言葉です。十字架にかけられたキリストが、息絶えて地面におろされた直後、祭壇の形をした岩の上に横たえられたキリストを取り囲み、人々が悲しみにくれる図なのです。ただし、この作品の「ピエタ」には、もっと礼拝的で、さらに情動的な側面が強調されているように感じられます。
キリストの亡骸と共にあるのは、悲しみにくれる聖母と、激しい身振りで悲嘆を表現するマグダラのマリアです。そして、死せるキリストにひざまずく右下の人物は聖ヒエロニムスとされ、どうやら、老いたティツィアーノの自画像ではないかと言われているのです。
16世紀ヴェネツィア派最大の巨匠として揺るぎない地位を確立し、85年以上の長い生涯に500点近い膨大な作品を制作したティツィアーノは、「色彩の錬金術師」と呼ばれました。
ミケランジェロとの論争は有名です。線描と人体表現をこそ最重要視したミケランジェロに対し、色彩を最優先としたティツィアーノの姿勢は一貫したものでした。動的で大胆な筆触を用いた油彩技法は、圧倒的な存在感をもって見る者を魅了し続けたのです。
しかし、そんなティツィアーノの色彩は、徐々に暗く、濃く、重くなっていきました。そして、晩年の作品は、まるで未完成のような趣きになり、もはや絵筆を使うことなく、直接指で絵の具をこすりつけて描くようになったといいます。しかし、この驚くべき変化もまた、この巨匠の長い画歴を飾る一時代であることに間違いないのです。
ところで、この作品は、ティツィアーノの遺言とも言うべきものです。フラーリ聖堂内にと考えていた、みずからの墓のために制作したものだからなのです。結局、絶筆となりましたが、わずかに残された未完成部分は、弟子のパルマ・イル・ジョーヴァネによって完成されました。
銀灰色の色調、震えるような筆致からは、画家自身の鼓動が伝わるようです。それは、絵画への愛、尽きることのない憧憬に満ちた静かで美しい画境そのものなのです。
壁龕(ニッチ、厚みのある壁をえぐって作ったくぼみ部分)にはキリストの犠牲を象徴するペリカンが描かれ、両脇にはモーセと、磔刑と復活を予言したヘレスポントスの巫女の彫像が置かれています。どこか霊的で、モニュメンタルなこの「ピエタ」の中で、キリストの安らかな顔だけが、私たちに何かをそっと語りかけているようです。
★★★★★★★
ヴェネツィア、 アカデミア美術館 蔵
<このコメントを書くにあたって参考にさせていただいた書籍>
◎西洋美術館
小学館 (1999-12-10出版)
◎西洋美術史(カラー版)
高階秀爾監修 美術出版社 (1990-05-20出版)
◎オックスフォ-ド西洋美術事典
佐々木英也著 講談社(1989-06出版)
◎イタリア絵画
ステファノ・ズッフィ編、宮下規久朗訳 日本経済新聞社 (2001-02出版)
◎ルネサンス美術館
石鍋真澄著 小学館(2008-07 出版)