なんて可愛らしい聖母なのでしょう。まだまだ幼さの残るこの少女が、
「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」
と全てを受け入れ、救い主の母となった聖母マリアなのです。
全能の神の力と導きを信じる少女が、神の言葉を携えた天使の来訪を受けたのは、まだ16歳の時だったといいます。彼女は、人の子の母としては若過ぎるようにも感じられますが、考えてみれば、このくらいの少女であるほうが自然なのかもしれません。
この作品は、ロシアの名門貴族クラーキン公のコレクションだったものがフランス人画家レオン・ブノワの手に渡ったことから「ブノワの聖母」と呼ばれています。しかし、その後再び、ロシア皇帝ニコライ2世に購入されています。
レオナルド初期のみずみずしい聖母子像は、見ているこちらまで幸せになってしまいそうな愛らしさです。
四枚の花びらをもつ小さな白い花を差し出され、幼いイエスは興味津々といった表情で手を伸ばしています。この花は十字架を象徴していますから、イエスは自らが聖なる存在であること、そして、その運命についてもすでに知っているのでしょう。なかなか栄養状態のよい元気そうなイエスですが、頭部の大きさも並ではなく、将来の賢さも納得できるようで微笑ましくなってしまいます。
盛期ルネサンスを集約したような天才レオナルドですが、初期のころにはまだ、その様式も完成しきっていなかったようです。
聖母の顔はすでにスフマートの表現によって優しく柔らかく、背後の闇に溶けていきそうですが、彼女の左手、イエスの右手の描写には、ややレオナルドらしからぬ観察の甘さが感じられます。そして、イエスのバタバタとよく動く足は比較的強い輪郭線で描かれ、明暗も明確で、いまだ発展途上の感が否めません。しかし、だからこその初々しい聖母の姿…という気がします。
また、実際に微笑んでいる聖母というのも、鑑賞者としては嬉しいものです。受胎告知を受け、神の子の母となって以来、マリアはずっと苦難の連続でした。もしかしたら、こんなふうに微笑むことができたのは、生まれたばかりのイエスを腕に抱き、母としての実感を噛みしめた、この一時期だけだったかもしれません。無垢と受容の聖母は、このときだけはわが子の未来も忘れ、胸一杯の幸せにひたっているように見えます。
ところで、私たちはしばしば、聖母の髪型の美しさと複雑さに見とれてしまいます。特にルネサンス期の画家たちは、どうやって結い上げたのだろうと思うようなヘアスタイルを描いてくれています。ボッティチェリやフィリッポ・リッピなど、その興味だけでも楽しませてくれる代表です。これは、画家の創造というわけでもなさそうで、当時の流行や好みが大いに反映されているといいます。ブノワの聖母もなかなかのオシャレさんで、この髪型は彼女にとても似合っていますが、最近はこれによく似たヘアスタイルも見かけるようになりました。女性のおしゃれごころは、ルネサンスの時代から少しも変わらないということなのかもしれません。
★★★★★★★
サンクト・ペテルブルク、エルミタージュ美術館蔵
<このコメントを書くにあたって参考にさせていただいた書籍>
◎西洋絵画の主題物語〈1〉聖書編
諸川春樹監修 美術出版社 (1997-03-05出版)
◎西洋美術史(カラー版)
高階秀爾監修 美術出版社 (1990-05-20出版)
◎西洋絵画史WHO’S WHO
諸川春樹監修 美術出版社 (1997-05-20出版)
◎イタリア絵画
ステファノ・ズッフィ編、宮下規久朗訳 日本経済新聞社 (2001/02出版)