彼の悲鳴は地の底から響き渡っているに違いありません。そして私たちは耳を押さえ、このあり得べからざる光景が目の前から去ってくれることをひたすら祈るばかりなのです。
しかし、さらに目を離すことなく見つめるとき、そこに血飛沫のようにはじける黄金の雨の輝きに魅せられている自分に気づかされるのです。縦方向の激しい運筆の中に亡霊のように浮かび上がった苦悶の表情の人物は、今まさに異世界に連れ去られようとしており、空間の運動は最高潮に達しています。この次の瞬間、全ては無に帰し、深い底なしの闇だけが残ることを私たちは感覚で知っているのかも知れません。
ディエゴ・ヴェラスケスの有名な肖像画『教皇イノケンティウスⅩ世の肖像』へのこだわりは、ベーコンの心をずっと離れなかったようです。固い高座に似た円筒に閉じ込められて動けなくなったイノケンティウス10世のイメージは、ベーコン自身の純然たる苦悩を視覚化するに最もふさわしい素材だったのでしょうか…彼はこの『教皇イノケンティウスⅩ世の肖像』の複製図版をもとにした、いわゆる教皇シリーズを繰り返し、しつこいほどに描き続けているのです。
しかし、ここで目にするのは、もちろんイノケンティウス10世その人ではありません。虚空の闇の中で泣き叫ぶ亡霊なのです。この絵の中で、ベーコンはヴェラスケスと競っているように見えますが、それは飽くまでも彼の土俵の上でのことです。ここではベーコン自身の胸が悪くなりそうな暴力的な心象と、そして輝くように美しく魅惑的な筆致とが、耐え得るギリギリの緊張を保って形を成しているのです。
フランシス・ベーコンと言えば、同名の哲学者を思い浮かべますが、彼はベーコンの傍系に当たります。1930年頃からインテリア・デザイナーとして出発し、やがて絵画に移っていきますが、古典の名画、写真、映画のスチール、レントゲンなどの実在するイメージをテーマに選ぶことが多く、そこには実生活においても、芸術への姿勢においても、いつも危険に身をさらさずにはいられない彼の、生真面目な人間心理への取り組みが感じられます。ただし、それはしばしば目をそむけたくなるような深い淵を浮き彫りにするものではありますが….。彼は、閉ざされた室内空間の中で歪み、ねじれた人間のイメージを、それとは信じにくいほどの平淡で鮮やかな色彩で描き上げました。戦後の、抽象絵画が主流となった時代に、「身体」という刺激的な素材は、彼に具象画の新しい扉を開かせたのです。
ベーコンが追い求めたものは、彼自身の言葉で表現するなら、「感覚作用の奥深くに可能性として潜んでいるものを解放するようなイメージ」でした。しかし、ここに描かれたイメージを見るとき、イノケンティウス10世に新たに支配されていく感覚に抗えないものを見てしまうのです。
★★★★★★★
アイオワ、 デモイン・アートセンター 蔵