ゆったりと椅子にかけたキリストは、姉のマルタの問いかけを受けて妹のマリアを示し、何事か大切な話をしているようです。この余りにも有名な場面は、ルカによる福音書第10章38~40節によるものです。
イエスが旅の途中、弟子たちとともにベタニアという村に入ったとき、マルタという女が一行を家に迎え入れました。マルタはとても活動的で、かいがいしく働く女性でしたから、何とかイエスに喜んでもらおうと一生懸命に立ち働きました。ところが、彼女の妹のマリアはイエスの足元に座ったまま、じっとその話に聞き入るばかりだったのです。
たまりかねたマルタは、イエスに近寄って言いました。
「主よ、私の妹は私にだけ もてなしをさせています。どうか手伝うようにおっしゃってください」。
すると、イエスは穏やかに答えました。
「マルタよ、マルタよ。あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。しかし、なくてはならぬものは多くない。いや、一つだけなのだ。マリアは、そのよい方を選んだのだ。そして、それは彼女から取り去ってはならないものである」。
奉仕的で、人のために働くことを喜びと感じるマルタのような女性には、マリアの態度は納得のいかないものだったに違いありません。それで思わず、イエスに不満をぶつけてしまったのでしょう。しかしイエスは、やんわりとマルタに、神の言葉を聞くことの大切さを説いたのです。
しかし、ここでイエスは決してマルタを批判したり、強い口調で真理を説いたわけではありません。イエスの様子はあくまでも穏やかで静かで、マルタを否定するようなものではありませんでした。心をこめて もてなそうとしてくれているマルタに、「あなたもちょっとここへお座りなさい。マリアと一緒に、神の愛について考えませんか」と語りかけているのです。
そんな、人間的な会話が聞こえてきそうな画面には、フェルメールの目指した物語画の一つの到達点を見ることができるような気がします。これはフェルメール唯一の物語画であると同時に、現存する最も初期の作品なのです。うねるような大胆な筆の動き、カラヴァッジオの影響を感じさせる明暗の表現など、後のフェルメールの静謐さとは違う重厚さに満ち、フェルメールの強い情熱が伝わってくるようです。
当時、オランダの才能あふれる若い画家たちは皆、物語画を志していました。そして、もちろんフェルメールも、そんな青年画家の一人だったのです。やがて、急速な社会状況の変化のためか、フェルメールは将来的に需要が多いと見込まれる風俗画に方向転換してしまうのですが、もしこのまま物語画家として生きていたら全く違うフェルメールが見られたのかもしれない、とこの作品はふと思わせてくれます。
ところで、この絵のテーマは聖書の中の物語ですが、私たちがついつい陥りがちな過ちへの忠告が秘められているように感じられます。私たちは独善的な自分に慣れてしまって、コリント人への第一の手紙第8章2節にあるように、「もし人が、自分は何か知っていると思うなら、その人は、知らなければならないほどの事すらまだ知っていない」のかもしれません。
私たちが唯一目にすることのできるフェルメールの描いたキリストは、そんな人間の悲しさのもっと向こうを見つめるような、遠い眼差しをしているのです。
★★★★★★★
エディンバラ、 スコットランド・ナショナル・ギャラリー 蔵
<このコメントを書くにあたって参考にさせていただいた書籍>
◎フェルメールの世界―17世紀オランダ風俗画家の軌跡
小林頼子著 日本放送出版協会 (1999-10-30出版)
◎フェルメール論―神話解体の試み
小林頼子著 八坂書房 (1998-08-30出版)
◎聖書の人々
佐伯晴郎著 創元社(大阪) (1983-01出版)
◎西洋美術館
小学館 (1999-12-10出版)
◎西洋美術史
高階秀爾監修 美術出版社 (2002-12-10出版)