たおやかな美しい女性が、優雅に目を伏せ、足元に視線を落としています。彼女の口元には微かな笑みさえ浮かび、遠くまで広がるすがすがしい風景を背に、静かに自らの心を見つめているようで…..。
しかし、私たちは、彼女の視線を追って足元まで達したとき、ぎょっとさせられます。そこには、無念の表情で胴体から切り離された生首がごろりと転がり、彼女は何のためらいもなく、それを踏みつけているのです。ここではじめて、彼女の衣装の右肩口から裾にかけて色が微妙に違うのも、もしかすると血の跡かも知れない….と、私たちの心は急にざわめき始めるのです。
こんなふうに、ジョルジョーネの作品には、とても謎めいた幻想性と、不思議な不安感…それも、ひどく心地よい不安感に満たされているものが多いのです。それは、彼が物語の主題よりも風景や人物の詩的情趣の表現にこそ力を注いだためかも知れません。というより、ジョルジョーネの興味は、まさにそこにあったと言えそうな気がします。
ジョルジョーネは、16世紀のヴェネツィア派の巨匠であり、ヴェネツィア派絵画の転回点をしるす人物という言い方をされています。しかし、それほど重要な画家でありながら、その生涯についてはヴァザーリの伝記以外にはほとんど知られていません。それはおそらく30歳そこそこで夭折したために残された作品が少なく、そのうえ署名年記入りの作品が一点もないことに起因していると思われます。そして、彼の作品の大部分が、ヴェネツィア貴族や選ばれた知識人グループのために描かれた、非常に個人的な、私的コレクションのための小型油彩画であったことに大きな原因があったのではないでしょうか。ですから、作品の帰属については、いまだに議論のあるものも多いのです。
しかし、教会や政府などの公的保護者ではなく、そうした個人蒐集家の好みのために描くことは、ジョルジョーネの嗜好にも合致したものだったのでしょう。彼は、風景のための風景画が珍しかった時代に、すでに今日的な詩的風景画を描いていました。作品のテーマそのものよりも、絵画のなかから醸し出される雰囲気を大切にしたのです。ですから、このユディトにしても、剣と生首に目がいかなかったら、その内的で静かな美しさにまず心を奪われ、十分に満足してしまうところかも知れません。
ユディトはもちろん、ユダヤ民族の愛国の女傑、抑圧者に対するユダヤ民族の戦いの象徴となる女性です。アッシリアの軍勢に攻囲されたユダヤの町ベツリアの住民たちを救うため、裕福な美しい寡婦ユディトは宝石で身を飾り、侍女を連れてアッシリア軍の野営地へのり込みます。そして、民族に背いたふりをして敵の司令官ホロフェルネスにとり入り、ユダヤ人征服のための偽りの計略を持ちかけます。ホロフェルネスはユディトの美しさの虜となり、宴会を催して言い寄ろうとしますが、反対に酒に酔いつぶれてしまいます。チャンスを得たユディトはすぐさまホロフェルネスの剣をつかみ、素早い2振りでその首を斬り落とし、侍女の持つ袋に生首を納め、急いで野営地を出てベツリアへ戻ります。
この作品の場面は、剣を持ち生首を足下に立つユディトの姿からして、野営地での場面かとも思われます。しかし、たった今人ひとりの首を斬り落とした直後としては、あまりにもユディトの表情が静かで、やはり臨場感というものは感じられません。このあたりいかにも、テーマよりもそのテーマを借りて詩情を描こうとしたジョルジョーネらしいところと言えそうです。
しかし、もしかすると、強い緊張を乗り越えたとき、人間はこんなふうに、本当の意味で静謐な瞬間を迎えることができるものなのかも知れません。それはもちろん、ユディトのような真の強さを持った女性だからこそ、なのかも知れませんが….。自らに科せられた大きな仕事を、すべての感情を排除してみごとに遂行したユディトには、この清らかさはとても相応しいようにも感じられてくるのです。
★★★★★★★
サンクト・ペテルブルク、 エルミタージュ美術館 蔵