オウィディウスの『転身物語』は、ギリシャ・ローマ神話の集大成として知られていますが、至高の神ユピテルの官能的な冒険譚は、殊に絵画作品として人気があります。
イオは、ギリシャ神話において、初代アルゴス王イナコスの娘でした。イナコスは川の神であり、この作品の右下で川の水を飲む牡鹿はイナコスを表したもの、とする説があります。好色な最高神ユピテルは、このイオに恋をし、彼女を追いかけ、雲に姿を変えて誘惑します。
画面は、まさにその瞬間が描かれています。かすかに人の姿を想起させる形を秘めたブルーグレーの雲が、忘我の表情のイオを抱きしめています。ユピテルの右手はやや動物的で、犬か熊のもののようにも見えますが、イオの顔の近くには、確かに顔らしきものが認められ、今にも彼女にキスをしようとしています。
しかし、この場面が絵画化されることは滅多にありません。好色な雲を描くなど、なんとも難しい注文だからでしょう。それでも、パルマの画家コレッジオ (1489年頃 – 1534年)は、パトロンであるマントヴァ公フェデリーコ・ゴンザーガのたっての頼みで、その難しい場面を作品にしました。官能的で美しいイオの姿は、後の画家たちに強いインスピレーションを与えたに違いありません。
この作品が18世紀絵画を思わせるのは、自然なことです。理想的な女性美、性的な雰囲気、甘やかで夢のような、それでいてやや享楽的な優美さ、繊細さは、ブーシェやフラゴナールに至るロココ絵画の先駆と言っても過言ではありません。それは、コレッジオの持つ特徴でもありました。イオの髪の編み上げ方や薔薇色の頬にも、ロココ風の香りが漂います。今では、ルネサンス期最高の、エロティックな作品と言われています。
コレッジオは、「ダナエ」「レダ」「ガニュメデス」とともに、「ユピテルの愛の物語」というタイトルを冠して、四部作としてマントヴァ公の期待に応えました。公は、神聖ローマ皇帝カール5世にこの連作を献上しています。
ところで、ユピテルの妻ユノは、にわかに湧いた雲が地上を夜のように覆っているのに驚き、ユピテルの不貞を見抜いたといいます。そこでユピテルは、ユノの目をくらまそうとイオを牝牛に変えてしまいます。すると今度はユノが、百の眼を持つアルゴスに、この牝牛の番をさせて見張らせたのです。すっかり困ったユピテルは、イオを取り戻すために伝令神メルクリウスを遣わし、アルゴスを眠らせて首を斬り落とさせてしまうのです。しかし、その後、イオはユノの送った虻(あぶ)に苦しめられ、世界中を逃げ回ることになります。
この突拍子もない神話の中で、ひどく興味をそそられる逸話が一つあります。ユノは、首を斬り落とされたアルゴスの百の眼を取って、孔雀の尾につけてしまったというのです。これが現在の、孔雀の尾の模様の起源だというのですが、イオへの嫉妬の激しさもさることながら、ユピテルの妻ユノの、ユニークな発想に何やら感動させられます。
オリュンポスの最高位の女神ユノの聖鳥が孔雀であることの由来に深く納得させられるとともに、正妻であり姉でもあるユノに、結局は頭が上がらないユピテルの困った顔が浮かんでくるようです。思わぬ夫婦喧嘩のもととなってしまったイオは何とも気の毒で、そんな事情も思い合わせたとき、この作品の持つ味わいも少し違うものになってくるようです。
★★★★★★★
ウィーン、 美術史美術館 蔵
<このコメントを書くにあたって参考にさせていただいた書籍>
◎西洋名画の読み方〈1〉
パトリック・デ・リンク著、神原正明監修、内藤憲吾訳 (大阪)創元社 (2007-06-10出版)
◎名画への旅〈8〉/盛期ルネサンス〈2〉ヴェネツィアの宴
森田義之・高橋裕子他著 講談社 (1992-12-15出版)
◎西洋絵画の主題物話〈2〉神話編
諸川春樹監修・著、利倉隆著 美術出版社 (1997-05-30出版)
◎西洋美術館
小学館 (1999-12-10出版)
◎西洋美術史
高階秀爾監修 美術出版社 (2002-12-10出版)