当時、この奇妙で美しい作品を目にした人々は、一様に圧倒され、見とれたに違いありません。
聖母や聖女たちの神々しさもさることながら、ここに描かれているのは単なる聖人たちを伴った聖会話の図ではありません。壮大な新約の歴史が描き込まれた、祈りの集大成なのです。
画面の上半分を占めるのは、不思議な格子棚上のたくさんの円形画です。ここにはキリストの誕生から死、そして復活までが順に描かれており、「ロザリオの玄義」と呼ばれています。すべて、祈りの際に瞑想すべき場面なのです。
下の段の5場面は、受胎告知に始まる「喜びの玄義」です。中段は、オリーヴ山の祈りから磔刑に至る「悲しみの玄義」。そして上段には、復活以後の「栄光の玄義」が表されているのです。
よく知られた聖書の物語ではありますが、このような表現は他には見当たりません。このあたりにも、反古典主義的な構図と屈折した心理表現を得意としたロットらしさを見ることができます。
ロレンツォ・ロット(1480-1556年)は16世紀ヴェネツィア派における、とてもユニークな画家です。しかし、地方を転々とし、あえて当時の主流な潮流には属さない独自な画風を確立していきました。
古典主義的な均衡や暖色系の色彩は、ロットには無縁でした。彼には、寒色と不穏な光こそが似合います。そして、何やら胸騒ぎのする荒々しさや有り得ない構図が、ロットの存在感を際立たせるのです。
後年、競売の失敗による貧困と失望から、ロレートのサンタ・カーサ(聖母の家)修道会の奉献修道士となって、死ぬまで完全な祈りの生活に入ってしまうロットですが、この時期にはまだ旺盛な制作活動の手を休めることはありませんでした。
質素な台座で幼な子を抱く聖母は、聖ドミニクスにロザリオを与えています。彼はスペインの国家聖人の一人で、ドミニコ会の創立者でもあります。しかし、よく考えてみると、タイトルから察して、この作品の主役は、実は聖ドミニクスその人とも言えます。聖母マリアに対する独特な祈りである「ロザリオの祈り」は、彼によって創始されたと伝えられているからです。
ロザリオは、祈りの回数を記憶するために考案されたものです。キリストと聖母の喜び、悲しみ、栄光の玄義を黙想しながら、天使祝詞を150回唱えます。その際、10回を一連、五連を一環として三環で終わるように考えられているのです。一連ごとに一玄義を黙想するため、「ロザリオの十五玄義」と言われています。
幼児キリストは元気よく、チンゴリの町の守護聖人が捧げる都市模型を祝福しています。そして、真ん中の天使は桶に浮かんだ薔薇の花びらをすくって、画面のこちら側に投げかけているようで、これを見たときのチンゴリの人々の、誇らしく幸せな笑顔が見えるような気がしてきます。
ロット作品が、今でもマルケ州のアンコーナやイエージなど、そのゆかりの地に大切に保存されているのも、ロットの旅の多さと、死後、暫くのあいだ、その芸術が忘れられていたことの証しのような気がします。絵画は、制作された地で鑑賞できるのが一番の贅沢かもしれません。何が幸いするか、わからないものです。
★★★★★★★
チンゴリ、 市立絵画館 蔵
<このコメントを書くにあたって参考にさせていただいた書籍>
◎新約聖書
新共同訳 日本聖書協会
◎西洋絵画の主題物語〈1〉聖書編
諸川春樹監修 美術出版社 (1997-03-05出版)
◎西洋美術史(カラー版)
高階秀爾監修 美術出版社 (1990-05-20出版)
◎ルネサンス美術館
石鍋真澄著 小学館(2008/07 出版)
◎オックスフォ-ド西洋美術事典
佐々木英也訳 講談社 (1989-06出版)
◎西洋絵画史WHO’S WHO
諸川春樹監修 美術出版社 (1997-05-20出版)