やや焦点が合わない感じの瞳は、信じられないくらい澄んでいて、思わず時間を忘れて見返してしまいます。何を見ているのでしょう….静かで、思慮の深そうな、波が一度も立ったことのない湖のようで….。
広い額にも知性を感じますが、彼は、ヴィクトール・ショッケといい、大蔵省の下級官吏でした。そして、その一方、絵画の収集家として知られ、ドラクロワの崇拝者でもありました。
そんなショッケが、1875年の売り立てでルノワールを見出してくれました。もちろん、ルノワールには、この後、たくさんの後援者や愛好家が現われますし、ショッケが特別…というわけでもなかったでしょうが、しかしルノワールは、さざ波が朝の光をいっぱい受けたように繊細なタッチで、しかも非常に心を込めて、この肖像画を描いています。
細長い顔も組まれた指の細さも、おそらくはショッケの人柄を象徴するものなのでしょう。たしかな審美眼を持つショッケに、ルノワールが深い敬意と親しみを持っていたのが感じられます。
ルノワールは、友人とともに展覧会に出かけ、この自作を前にしたとき、
「狂人の肖像だ…狂人の画家が描いた….。なんと愛すべき狂人じゃないか。この頃やつは、資産もなしに、官吏の俸給をやりくりして絵を買っていた。それも、いつか値上がりするといったことには無頓着で…」
と呟いたと言います。
人なつこい性格のルノワールは、こんなふうに、茶目っ気たっぷりに敬愛の念を表現することもあったのかも知れません。そして、これ以上ないほどの明るい色と光で、この愛すべき狂人を包んでしまったのです。
なお、ヴィクトール・ショッケは、後にエミール・ゾラの『作品』の中に登場する収集家ユー氏のモデルとしても知られています。
★★★★★★★
ハーヴァード大学 フォッグ美術館蔵