絶えずガタガタと軋む三等列車に乗り合わせた人々は、お互いに車内にギューギュー詰めに座ってはいるけれど、それ以外に何の共通点も持っていません。それぞれが別々に虚空に視線を漂わせながら、自分の今を考えるのに精一杯で、他の人々に関心を寄せる余裕も、また気力もないようです。
群集の中の孤独…言い旧された言葉ではありますが、ドーミエの手にかかるとそれはあらためて私たちに新鮮な認識をもたらします。近代の都市生活におけるジレンマ…150年前も今も、人の心はそう変わるものじゃないよ….ドーミエのそんな、ちょっと笑いを含んだ声が聴こえてくるようで、あらためて画面を見返してしまいます。
ドラクロワに代表されるロマン主義運動も、結局は現実生活そのものからは遊離して発展していきました。ロマン主義の絵画と聞いてまず想起される歴史や文学といったものは、産業革命の騒乱には目を閉じたままの、想像力の領域と言っても良いものだったからです。
そんな中で、オノレ・ドーミエだけは、唯一、現実から目をそらさなかったロマン派の画家だったと言えます。彼は痛烈な観察眼を持つ政治漫画家として有名でした。だからでしょうか、実質上、画家としては生前、無名のままに終わりました。その生涯の大半を、さまざまな週刊誌の風刺画の寄稿で過ごしたため、1840年代に入ってからの彼の油彩画に興味を示す人は少なかったのです。
しかし、そもそもドーミエ自身が尊敬してやまなかったレンブラントの仕事に匹敵するほど、人間に対する共感を抱き続けたドーミエは、貧しい人々の尊厳を探究し、光を当てることに自らの使命をさえ感じていたような気がします。
この作品の、ドーミエ独特の彫塑的な単純さ、運筆の自在な表現は、もしかすると未完成な作品に見えてしまうかも知れません。しかし、この闊達な自由さこそ、当時の貧しい階層の人々の持つ重厚で侵しがたい威厳を受け止めようとする、ドーミエの感情そのものなのだと確信できます。
おそらく、ロマン派の巨匠ドラクロワには絶対に見ることのできない表現力と生命力であろうと思うのです。ドーミエの関心は、現実に形として見ることのできる表面ではなく、その場に流れる空気と人々の情緒そのものにあったに違いありません。
ところで、一人だけ視線をこちらに投げる印象的な老婦人は、少し前の古典主義を信棒した画家 ル・ナン作『農民の一家』の一番左側の婦人を彷彿とさせます。しかし、寡黙で静かな雰囲気をたたえるル・ナンの婦人にくらべると、ドーミエの描く三等列車の老婦人はひとくせもふたくせも有りそうですが….。
★★★★★★★
ニューヨーク、 メトロポリタン美術館 蔵