おそらく、19世紀後半、世界で最も有名な宗教画と言われた作品であり、ラファエル前派運動の「大祭司」と皮肉られたウィリアム・ホルマン・ハントが手がけた最初の宗教画でもありました。
この絵には、ヨハネの黙示録の3章20節が添えられています。
「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。
だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう」。
キリストの提げたランプからは、暗闇を照らす温かい光が流れ出し、キリストの足元に、草に、建物にからまる蔦にも温度を与えていきます。戸外の寒さも、このランプの灯りさえあれば、きっと慰められるに違いありません。そう思わせる力が、この作品には確かに感じられます。
それにしても、なぜこの場所が寒いと感じられるのでしょう。それは、ハントの徹底した自然描写へのこだわり、顕微鏡を思わせるほどの正確さ、真摯で忠実に学んでいく態度が強く反映されているためではないでしょうか。
同じラファエル前派の創立メンバーの一人であり、ともにロイヤル・アカデミー・スクールズで学んだジョン・エヴァレット・ミレイは、実際に夜の屋外で制作が行われた際の経験を、次のように書き残しています。
「今夜私は果樹園へ出掛けた。素晴らしい月夜だったが、凍てつくような寒さだった。ハントのためにランプを持ち、その効果を試した。(略)彼はこの光で絵を描くつもりである」。
ミレイは寒い夜に果樹園にかり出され、ちょっと迷惑だったかも知れません。しかしハントは、現実とはかけ離れた主題であっても、事実に忠実な表現にこだわったのです。そして、見せかけでないアイディアを見つけることに努めたのです。こうした、自然と直接に向き合う姿勢はラファエル前派の理念を忠実に守るものでもありました。ひとりよがりではなく、自然に直接学んでいくハントの態度が、この絵から温度さえも感じさせることになったのです。
ですから、彼の宗教画に対する情熱には特別なものがあった、と評されがちですが、じつは、聖書のなかの出来事であっても、実際に起こったと思われる状況に即して描くことにこだわっただけだったのかも知れません。そのあたり、「ラファエル前派の大祭司」という言い方は、少しハントを誤解した中傷だったように思います。
また、ここで特筆すべきは、キリストの持つランプにかけたハントの情熱です。彼は、ランプの素描に莫大な情熱をそそぎ、みごとな下絵も残しています。そしてそこには、ランプの開口部に見られるさまざまな形への画家のこだわりが見てとれます。ハントはおそらく、黙示録に出てくる“7つの教会”を意識していたのでしょう。絵画のなかに教訓的な意味を強調することを好んだ、ハントらしいこだわりという感じがします。
伝統的な絵画の法則にも、また底の浅い当時の絵画にも反発し、飽くまでもラファエル前派の理念に忠実だったハントは、しかし決して正しい評価を受けてこなかった画家…と言えるかも知れません。画面のなかに、敢えて洗練された優美さを追求しようとしなかった彼の作品が人々に広く知られるようになったのは世紀末であり、この作品も複製画や写真となってやっと親しまれるようになったのです。
★★★★★★★
マンチェスター市立美術館 蔵
<このコメントを書くにあたって参考にさせていただいた書籍>
◎ヴィクトリア朝の宝部屋(異貌の19世紀)
ピーター・コンラッド著 国書刊行会 (1997-03-25出版)
◎ラファエル前派の夢
ティモシー・ヒルトン著 白水社 (1992-01-20出版)
◎西洋美術史(カラー版)
高階秀爾監修 美術出版社 (1990-05-20出版)