夫婦は額を寄せ合って、お金の勘定に余念がないようです。妻は、日々の祈りに使用する美しい時祷書を開いているものの、その目は夫の手元に引き寄せられています。敬虔な祈祷書よりも、世俗的な欲望に強く惹かれるのは無理からぬことかもしれません。
しかし、考えようによっては、時祷書によって象徴された真に価値あるものが、この夫婦に善なる道を示していくだろう、という暗示ともとれるようです。
風俗画は、市井の名もない人々の日常生活を描き出す絵画です。歴史画や宗教画、肖像画などと並んで、こうした絵画も実は古くから見受けられました。特に、宗教改革を経た16世紀ヨーロッパでは、教会の注文が減少する一方で、世俗的な主題の絵画の需要が増大していきました。
マセイスのこの作品も、初期の風俗画と考えられます。一見、夫婦の肖像画のようですが、画中に描かれた数々の「物たち」を見れば、道徳的な教訓、宗教的メッセージが込められているのは間違いありません。しかし、ここには、作者の皮肉よりも、懸命に生きる庶民のたくましさ、それを見つめる画家の温かい眼差しこそが感じられるのです。
16世紀の初頭、金貸しや両替商といった職業は、比較的新しいものでした。急速に発展していく社会の中で、そうした仕事の重要性は増していましたが、それに伴い、キリスト教会から、不正への警告も発せられるようになります。
硬貨を計量する男のそばには、金の蓋付きのクリスタルのゴブレット、そして黒いビロードの布の上に置かれた真珠があります。このことから、男が宝石商らしいことがわかります。
また、秤は「最後の審判」の図に頻繁に見られる小道具で、人間の魂を量る聖ミカエルの持ち物です。実は、この絵に最初についていたフレームには、「レビ記」の一節が記されていました。
「あなたたちは、不正な物差し、秤、升を用いてはならない。正しい天秤、正しい重り、正しい升、正しい容器を用いなさい。わたしは、あなたたちをエジプトの国から導き出したあなたたちの神、主である。わたしの掟、すべての法を守り、それを行いなさい。わたしは主である」。
大きな不正も、最初は小さな誤魔化しから始まることが多い。それが次第に、「このくらいなら、いいだろう」と感覚が麻痺していくものだ、と警告しているのです。この警句を夫婦が心にしっかりと留めていけば、二人はきっと、道を誤ることはない、ということなのでしょう。
クエンティン・マセイス(1465/66-1530年)は初期ネーデルラントの画家で、ルーヴェンのバウツの工房で修業したと言われています。しかし、イタリア絵画に深く傾倒し、特にダ・ヴィンチの技法やカリカチュアの影響を受けています。宗教画を主に描いていましたが、やがて風俗画へ移行し、教訓的内容をもつ作品を描くようになったのです。
ネーデルラント絵画の輝かしい中心地であったブリュージュ(ベルギー西部)の町が沈滞し始めると、入れ替わりに、港町アントウェルペン(ベルギー北部)が発展を始めました。そのアントウェルペンに移住したマセイスは、興隆する町の空気をよく反映した画家だったといえます。この地の指導的画家となったマセイスは、初期ネーデルラント絵画の伝統的手法とイタリア絵画の伝統を融合させ、精緻で甘美な絵画世界を実現していったのです。
マセイスの技量を雄弁に語るのは、やはりこの繊細な表現と透明感に満ちた色彩でしょう。背後の棚の果物や本、机の上の容器や貨幣、宝石など、それぞれの質感の違いがみごとに描き分けられ、窓のさんは、なんとくっきりとした十字形をなしているのです。
さらに注目すべきは、机の上の凸面鏡でしょう。ここには外の景色、そして読書していると覚しき男の姿が映し出されています。ということは、この部屋にはさらに一人、人間がいることになります。しかし、彼はこの夫婦とは全く関係のない世界の人物のように感じられます。
鏡像は当時、画家の技量を誇示できる格好のアイテムでした。ことに、精緻な描写を得意とした北方の画家にとっては、腕の見せ所だったことでしょう。ここには、特別な世界がひそんでいます。世俗的な画面の中、鏡によって映し出された世界だけは、別次元の時が刻まれているようです。
★★★★★★★
パリ、 ルーヴル美術館蔵
<このコメントを書くにあたって参考にさせていただいた書籍>
◎オックスフォ-ド西洋美術事典
佐々木英也著 講談社 1989/06出版 (1989-06出版)
◎西洋美術館
小学館 (1999-12-10出版)
◎名画への旅〈10〉/北方ルネサンス〈2〉美はアルプスを越えて
高橋裕子・小池寿子・高橋達史・岩井瑞枝・樺山紘一著 高野禎子・高橋達史編著 講談社 (1992-08-20出版)
◎西洋美術史(カラー版)
高階秀爾監修 美術出版社 (1990-05-20出版)
◎フランドルの美術―カンパンからブリューゲルまで
岡部紘三著 かわさき市民アカデミー出版部;シーエーピー出版〔発売〕 (2006-06-30出版)