だれかに声をかけられ、仕立屋の男はふと手をとめ、こちらに視線を投げかけます。この瞬間空気が変わり、男の人生も新たに回り始めたかのようです。
作者のジョヴァンニ・バッティスタ・モローニ(1520-1578年)は、ロンバルディア平野の端に位置するベルガモ派を代表する画家の一人です。殊に彼の肖像画は秀逸でした。鋭い心理表現、威厳を感じさせる雰囲気とともに、こうした日常の中に見出された何げない情感を切り取って描く手腕は、当時のどの画家とも一線を画すものでした。モローニの洗練されたセンスと言う以外にはなかったと思います。
彼はモデルを理想化したり、英雄のように描いたりはしませんでした。あくまでも目指すところは現実感、そして飾ることのない独特な静謐感だったのです。マニエリスムが全盛を迎えていたこの時代の、人為的で理想化された肖像画とは全く違う世界を保ち続けたのがモローニだったのです。
1540年代以降の北イタリアでは、ヤーコポ・ティントレットとパオロ・ヴェロネーゼが、神秘性、祝祭感というそれぞれの個性で、新しい潮流を生み出していました。しかし、彼らに共通していたのは、現実感と自然主義的精神の追求だったかもしれません。
この魅力的な肖像画の持つモノクローム風の落ちついた色調と優しく繊細な自然光の表現に、私たちはひととき、慎ましい幸福感にひたってしまうのです。
★★★★★★★
ロンドン、 ナショナルギャラリー 蔵
<このコメントを書くにあたって参考にさせていただいた書籍>
◎西洋美術史(カラー版)
高階秀爾監修 美術出版社 (1990-05-20出版)
◎オックスフォ-ド西洋美術事典
佐々木英也著 講談社 1989/06出版 (1989-06出版)
◎ルネサンス美術館
石鍋真澄著 小学館(2008/07 出版)
◎西洋美術館
小学館 (1999-12-10出版)