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「兄弟たちと再会するヨセフ」

ペーター・フォン・コルネリウス (1816-17年)

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 この作品の主人公は旧約聖書『創世記』37-50で語られるヨセフ、彼の波乱万丈の物語です。
 ヨセフは父ヤコブと母ラケルとの間の長男として生まれました。ただし実際にはヤコブが再婚だったためヨセフは11男となり、弟にはベニヤミン、妹にディナがいました。ヤコブは大勢の兄弟たちの中でもヨセフを特別に愛しました。年をとってからの子ということもあり、きらびやかな服をヨセフに贈るなどしたため、10人の異母兄たちはいつかヨセフを憎むようになります。
 ある日ヨセフは夢を見ます。ヨセフが刈り取った麦の束だけが立ち上がり、兄たちが刈った束はみな地に倒れたのです。それはまるで兄たちがヨセフにひれ伏した姿のようでした。また別の日には月や星だけでなく太陽までもが自分がひれ伏した夢も見たのです。
 ヨセフはある意味天然少年だったのでしょう、その夢をそのまま兄たちだけでなく父ヤコブにも伝えました。父はそれを聞いて、おまえが我々の王になるとでもいうのかとヨセフを叱りました。それを聞いて、兄たちはますますヨセフを憎みました。
 ある日、ヤコブはヨセフに、羊の群を追っている兄たちの様子を見てくるようにと言います。素直に従ったヨセフでしたが、やってきたヨセフを見た兄たちは示し合わせて彼を穴に投げ込み、通りかかったエジプト行きの隊商に奴隷として売り飛ばしてしまったのです。家畜の血をしみ込ませた服を見せられたヤコブは、最愛の息子が死んだと思い、嘆き悲しみました。
 隊商の手によってエジプトに渡ったヨセフは、エジプト王宮の侍従長ポティファルの下僕となります。そこで聡明さから信頼を得、ついにはその家の全財産を管理するまでになるのです。ところが姿の美しいヨセフをポティファルの妻が毎日のように誘惑するようになり、ヨセフはかたくなに逃げ続けましたが濡れ衣を着せられ、ポティファルの怒りを買って監獄に入れられてしまいました。
 しかし監獄でも罪人の夢を解き明かすなど有能さを示し、看守長からも絶大な信頼を勝ち得るようになります。数年後、ファラオが非常に心騒ぐ夢を見たことからヨセフの噂を聞いて彼を呼び寄せ、夢解きをさせます。そこで7年続く豊作と7年続く飢饉を予言してファラオを感服させ、ついにヨセフはエジプトの宰相に取り立てられたのです。ヨセフの言葉どおりにエジプトは豊作の間に食糧を備蓄したため飢饉に耐え、食糧難にあえぐ国々から穀物を買い求める人々が集まってきました。
 ところで、ヨセフの父や兄の住むカナン地方も飢饉に見舞われていました。そこで兄たちも末弟のベニヤミンだけを残してエジプトに穀物を買いに来たのです。ヨセフはすぐに兄たちに気づきました。そこで兄たちをスパイと決めつけ、牢に入れてしまいます。ヨセフは牢の中で彼への仕打ちを後悔する兄たちの会話を聞き、末の弟のベニヤミンを連れてくるよう要求して一旦カナンへ帰らせます。穀物が尽きて困惑したヤコブは、ベニヤミンを連れてエジプトに行くことを渋々承知します。
 エジプトへ来たベニヤミンを見て感激したヨセフは、兄弟たちのために料理を振る舞いました。そして次の日、故郷へ出発した兄弟たちは検閲にあい、ベニヤミンの荷物の中からヨセフの銀の杯が発見されます。これはヨセフによる策略でした。弟を窃盗の罪で奴隷にすると脅された兄のユダは、ベニヤミンのかわりに自分が奴隷になるからと懇願します。弟を守ろうとするそんな兄の姿に打たれたヨセフは、自分がヨセフであることを明かすのです。
 このシーンはまさに、ヨセフがみずからの身分を明かし、もう自分への仕打ちを後悔しなくていいと告げて兄弟たちと抱き合った瞬間です。10人の兄たちのそれぞれの表情が印象的です。いまだヨセフの言葉が信じられない様子の者、泣き崩れる者、礼を尽くす者、それぞれの個性がやや硬い表現ながら描き分けられています。

 作者のペーター・フォン・コルネリウス(1783年9月23日-1867年3月6日)はアカデミーで教育を受けながら、ナザレ派の画家として1811年から19年までローマで活動したドイツ人画家でした。ナザレ派とは耳慣れない言葉かもしれません。19世紀初頭に起こったドイツ・ロマン派の画家たちによる、キリスト教美術の誠実性と精神性を取り戻そうとする芸術運動のことを指します。もともとはウィーンのアカデミーの学生たちが結成した、中世の画家たちのギルド「聖ルカ組」にならった「聖ルカ兄弟団」という協同組合だったのですが、聖書に忠実な衣装や髪形を好んだ彼らに対する侮蔑的表現として今ではこの「ナザレ派」という呼び名が定着しています。
 ナザレ派の理念は新古典主義の否定、そしてアカデミーにおける窮屈な美術教育を打倒することにありました。彼らは技巧のみにこだわる表現を排斥し、精神的価値を体現したイタリア・ルネサンス、そしてデューラーなどによる北方ルネサンスの芸術に関心を寄せ、芸術と宗教と生活が一体だった宗教改革以前の画家の工房の再生を願い、カトリックに改宗して修道士に近い生活を送ったことも特徴的でした。ですから作品のほとんどが宗教的主題のものということになります。ドイツ・ナザレ派は1830年代のドイツ美術界において存在感を示し、ロシアなど遠方の芸術家にも影響を与えたのです。

 ペーター・フォン・コルネリウスは画家一家に育ちました。父はデュッセルドルフ美術アカデミーの講師、またギャラリーの館長であり、兄のランベルトも画家でアカデミーの教師をしていました。兄弟は最初、父親から絵の教育を受けた後、1798年から1805年までデュッセルドルフ美術アカデミーで学んでいます。ただ1809年に母を亡くした後、旅に出てローマでナザレ派に出会ったようです。しかし結局故郷に帰り、アカデミズムの画家へと戻っていくこととなります。
 1816年にはゲーテの「ファウスト」の挿絵を出版し、1819年から1824年の間デュッセルドルフ美術アカデミーの校長を務めています。1819年にバイエルンの皇太子ルートヴィヒに招かれてバイエルン王国で働き、さらに1825年にはミュンヘン美術院の運営も任され、貴族に叙せられるという名誉にも浴しています。バイエルン出身の才能ある多くの画家たちが、ペーターのもとから巣立っていったのです。
 このようにペーター・フォン・コルネリウスは、単に画家というより教師として人生を送った人物でもありました。作品は大聖堂のフレスコの壁画が圧倒的に多く、彼の輝かしい画業を印象づけます。しかし、ここに見られるような美しい色彩と登場人物の非常に人間的な存在感、澄明な空気感は画家の一途なひととなりをそのまま伝えてくれるようであり、それは色褪せることなく今も私たちの目をくぎ付けにし続けてくれるのです。

★★★★★★★
ベルリン国立美術館 蔵

 <このコメントを書くにあたって参考にさせていただいた書籍>
  ◎西洋美術館
       小学館 (1999-12-10出版)
  ◎ラファエル前派―ヴィクトリア時代の幻視者たち
        ローランス・デ・カール著 高階秀爾監修  創元社 (2001-03-20出版)
  ◎北方ヨーロッパの美術
        土肥美夫編  岩波書店 (1994-05-27出版)
  ◎西洋美術史(カラー版)
        高階秀爾監修  美術出版社 (1990-05-20出版)



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