この世の中に、罪なき者がどれほどいるのだろうか……。ボッスの芸術にふれるとき、いつもそんな思いにとらわれ、言い逃れのできない気分になるのは、もしかすると私だけではないのかもしれません。
その中でも、普通の人間の醜さを、これほど見事に表現し、こちらに突きつけてくる絵はないかもしれません。切ない、画家自身の悲しみが、声にならない声となって胸に突き刺さってくるようです。
この作品の怖さは、やはり、リアルな空間表現を無視して ひしめき合う顔たちの、息苦しいほどの圧力でしょう。彼らは、確かに人間であるけれど、人間とは、こんなに醜い顔をしていただろうか、と愕然とさせられます。
中世では、「悪」が人間を醜くさせると信じられていました。人間観察に長けたボッスは、キリストの十字架の道行きにテーマを借りて、その思想を最大限にデフォルメしてみせたのでしょう。
鞭打ちののち、兵士たちによって頭上に茨の冠を載せられ、十字架を担ってゴルゴタの丘に向かうキリストは画面の中心よりやや左にいて、静かで孤独な存在です。この地獄のような状況の中、ひっそりと目を閉じ、この場のすべてのものから遊離しているように見えます。
それに引き替え、群衆は異様な熱気に突き動かされ、まるで獣のようでさえあります。ほとんど狂気と化した人々は、抑えがたく横溢した活力によって、人間として最も醜い本性を露わにしてしまっているのでしょう。ある者は咆哮し、ある者は揶揄し、ある者は目を剥いて、ことの成り行きを興味津々で見つめています。
そんな中、一人、聖ヴェロニカは少し離れて、やはり目を閉じています。手には、キリストの額の汗をぬぐった布が捧げ持たれ、そこには救い主の顔がはっきりと写し出されています。聖ヴェロニカもまた、人々の喧噪とは無縁の存在です。
さらに、右下で振り返る男は、キリストと並んで十字架に架けられた「悪しき盗人」です。彼が、キリストに罵声を浴びせたとき、「我々の罪は当然だが、キリストは無実だ」と言った、もう一人の「悔い改めた盗人」は、右上の隅で青ざめた表情をしています。彼は、死の恐怖に打ち震えているのかもしれません。
福音書によれば、多くの群衆がイエスの後に従い、悲しみ嘆く女性も多かったことが伝えられています。しかし、この画面の中でうごめく人々は、いかにもシニカルなボッスらしい表現となっています。すべての重荷を一人で背負うキリストの悲しみと苦悩は、あまりにも美し過ぎて、穢れた世界とは、しょせん相容れないものであったことが残酷な事実として伝わってくるようです。
ところで、群衆の中には、当然、聖母マリアの姿もあったはずです。マリアは神の母として、また、神と救いを求める人々の間のとりなし役として、15世紀美術には不可欠な存在です。
しかし、聖母の姿は見当たりません。…というより、ボッスは作品の中に、実は一度も聖母を描いたことがないのです。ボッスは多くの宗教画を描いていますが、彼の興味は人間の本質そのものにこそあったのでしょう。甘やかな神の物語を超えたボッスの世界観は、現代の私たちの心まで、ざわつかせ続けているのです。
★★★★★★★
ベルギー、ゲント市立美術館 蔵
<このコメントを書くにあたって参考にさせていただいた書籍>
◎西洋美術史(カラー版)
高階秀爾監修 美術出版社 (1990-05-20出版)
◎西洋名画の読み方〈1〉
パトリック・デ・リンク著、神原正明監修、内藤憲吾訳 (大阪)創元社 (2007-06-10出版)
◎オックスフォ-ド西洋美術事典
佐々木英也著 講談社 1989/06出版 (1989-06出版)
◎西洋美術館
小学館 (1999-12-10出版)
◎世界美術史
メアリー・ホリングスワース著 中央公論社 (1994-05-25出版)
◎西洋絵画史WHO’S WHO
諸川春樹監修 美術出版社 (1997-05-20出版)