イエスは、2人の罪人と共にゴルゴダの丘で磔刑に処せられました。十字架の上には「ユダヤ人の王、ナザレのイエス」とその罪状が、ヘブライ語、ローマ語、ギリシア語で書かれ、刑場には聖母マリアをはじめ、ヨハネ、マグダラのマリアなど、イエスを慕う人々が居合わせていました。
磔刑は朝の9時に行われましたが、12時を過ぎた頃から辺りは暗くなり、3時頃、イエスはついに「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫び、「わたしは渇く」とつぶやきました。そこで兵士の一人が葡萄酒を海綿にひたして、葦の棒の先につけ、イエスの口に運んだのです。イエスは口を潤したのち、「成し遂げられた」との言葉を残して息絶えました。
すると、神殿の幕は裂け、地震が起こったといいます。父なる神の嘆きそのものの光景だったことでしょう。聖母はあまりの悲しみに気を失い、聖女や聖ヨハネの腕に抱きかかえられます。15世紀以降の表現では、地上に倒れこんでしまうこともあったほどです。
しかし、そうした人々の嘆きとは別に、ここに描かれたキリストの美しさ、静けさには目を奪われます。17世紀スペインにおいて「王の画家」と呼ばれたベラスケスは、このように心ふるえる磔刑図を描いたのです。ここにひっそりと頭を垂れるイエスの、なんと美しいことでしょうか。私たちはややもすると、これが磔の図であることを失念してしまいそうです。ここに描かれているのは、従来表現されてきたような受難と苦悩に満ちたキリストの姿ではありません。棘の冠をつけ、血を流してはいますが、均整のとれた若々しい肉体を持つ、この上なく美しい青年の姿そのものなのです。
一人静かに、全ての人間的苦痛から解き放たれたキリストは、巨匠ベラスケスの手で、暗い背景を背に、人間の最も理想的な、輝くばかりの姿で表現されています。そして、心弱い管理人としては、このキリストを見ることで、少しでも彼の人としての苦痛が少ないものであったことを祈らずにはいられないのです。
ところで、この作品のキリストがすっきりと十字架におさまって見えるのは、両足を平行にのばしているところに理由があるような気がします。13世紀までは、打ちつけられた釘は4本で描かれていたのですが、その後はほとんど例外なく、一方の足をもう一方に重ねて固定し、3本で描かれるようになったのです。しかし、この場合、ベラスケスはあえてキリストの受難の象徴である釘を4本にして描いています。4本の釘はベラスケスの故郷セビーリャの、伝統的な表現でもあると言われているのです。
生涯の大半を宮廷人として、フェリーペ4世付きの画家としてマドリードで過ごし、王室コレクションのヴェネツィア派やフランドル絵画に深い影響を受けていったベラスケスでしたが、セビーリャへの愛着は決して薄れることがなかったのだという気がします。
★★★★★★★
マドリード プラド美術館 蔵
<このコメントを書くにあたって参考にさせていただいた書籍>
◎キリスト教名画の楽しみ方 十字架
高久真一著 日本基督教団出版局 (1997-09-25出版)
◎西洋絵画の主題物語〈1〉聖書編
諸川春樹監修 美術出版社 (1997-03-05出版)
◎西洋美術史(カラー版)
高階秀爾監修 美術出版社 (1990-05-20出版)
◎西洋絵画史WHO’S WHO
諸川春樹監修 美術出版社 (1997-05-20出版)