キリストの磔刑の様子について、福音書にはほとんど詳しい記述がありません。ただ、キリスト昇架をテーマとした美術作品の中では、キリストの身体を十字架にはりつけにしたまま引き起こす表現が一般的かも知れません。これは、16世紀から18世紀にかけて実際に行われた方法と言われ、北方ヨーロッパ絵画の中に特に多く見られるようです。そして、茨の冠を被り、頭を横に傾け、やつれた姿のキリスト…という図像が、西欧芸術の主流と言って間違いないと思います。
しかし、この作品の中のイエスは、多くの磔刑図にイメージされるような憔悴や衰弱の色を見せていません。壮健と言っても良いような肉体を持ち、細身ながらきちんと発達した筋肉も感じさせます。その筋肉に、十字架が背後から起こされるにつれて、次第に体重がかかり、おのずと力がこもっていく様子までがうかがえるようです。
考えてみれば、この作品を制作した頃のレンブラントはまだ三十歳手前という若さであり、磔刑に処せられたイエスもまた三十歳を過ぎたばかり….。そんな若さ、生命力が、十分に反映された表現と言えるのかも知れません。
イエスは、人間としての生命の絶体絶命の状態に置かれながら、十字架がまだ仰向けに寝かされていたときとも、また十字架が完全に立てられた苦痛の極みの状態とも違う、この状態のこの角度でしか表現され得ない、信じがたいほどに「生きた」姿として描かれているのです。レンブラントはおそらく、この十字架の状態を得るまで、何度も何度も構想し直したのではないか….という感じがします。
ところで、十字架のもとにあって、イエスと同じ光に照らし出された男の顔を見て、レンブラントの自画像を見慣れた人は一様に、彼がレンブラント自身だとの確信を持つように思います。磔刑図には不似合いなベレー帽にも、レンブラントの思惑がこめられているようです。男の表情は沈鬱で、この異常な場面での熱狂など微塵もありません。そして、その目は、十字架に架けられたイエスを見てはいません。ただその瞬間の、十字架を引き起こすための重みだけを見つめているようです。それは、イエスを十字架に架けることへの罪の重みかも知れません。画家自身の中にある信仰心と、受難図を描くことへのある種の罪の意識が、男の表情に体現されていると考えるのは、少し穿ち過ぎかも知れませんが…..。
前から十字架を引き起こしている兵士、後ろから押し上げている人物は今、額に汗して完全に労働の状態に没頭しているように見えます。しかし、中央で十字架を抱える彼だけは、この作品の中心であり、この作業の要であり、唯一、人類の贖罪のために十字架に架けられるイエスそのものを実感できる立場にいます。彼は、全世界の重みを一身に引き受けてしまっているのかも知れません。
この作品を制作した当時、レンブラントは名声の絶頂期にありました。サスキアとの結婚や多くの弟子を擁する工房を構えるなど、何一つ不安のない、勢いに乗った状態だったと言えるでしょう。しかし、その時期に、こうした分身のような人物をそっとイエスの傍らに描き込んでいたのです。そんな密やかな行為から、ふと不思議に静かな画家の諦念を見るような気もするのです。
★★★★★★★
ミュンヘン、 アルテ・ピナコテーク 蔵