キリストが絶命したのは午後3時ごろと言われています。そのとき、空はかき曇り、地は震えました。
翌日が安息日であったこともあり、遺体は早めに片付けられる必要がありました。すると、アリマタヤのヨセフという男が総督ピラトに遺体の引き取りを申し出ます。彼はエルサレムの法院の有力者であり、隠れたキリストの弟子でもありました。もう一人ニコデモという男も現れ、キリストを十字架から降ろす作業にとりかかります。
『キリスト降下』を描くとき、やはり多くの画家は非常にドラマチックな大画面を見せてくれます。みごとな明と暗の対比のなかに劇的に描いたレンブラントや、人々の動きの連動が非常に躍動的で強い印象の残るリューベンスなど、十字架を中心にキリストの降下に携わる人々、それを見守り嘆き悲しむ人々….など、大構図の大作が多く見られます。そして共通するのは、作業をしながらも、そこにいる全ての人々のなかに漂う深い悲しみなのです。
ロッソ・フィオレンティーノの描いた『十字架降下』もまた、とりわけ複雑に大勢の人物が組み合わされ、斬新な構成に目を奪われます。しかし、そこに漂う悲嘆はどこか普通ではありません。十字架の頂上の白い髭の老人といい、キリストの遺体を抱える男に何事か指示を与える男といい、あまりにもエキセントリックな高揚感に酔っているようで、一種の恐怖さえ抱かせます。そして、我が子の死に接して気を失い、がっくりと首を垂れた聖母を支える手前の女性はまた、はっきりと画面のこちらに、何か心理的バランスを失ったような尋常でない目を向けています。
ロッソ・フィオレンティーノの、人物における誇張された悲嘆の表情は『ピエタ』にも見られますが、これは彼独自のスタイル、つまり「マニエラ」と言えると思います。同じく初期マニエリスムを代表する、同い年のポントルモもまた『キリスト降下』を描いていますが、これはまたこれで独特な悲しみの表情を高度な素描力と反自然主義的色彩で描き出しています。それもまた、ポントルモの「マニエラ」だったのです。
トスカーナ地方に出現した初期マニエリスムは、反古典主義と心理的な表出性が顕著に感じられる芸術でしたが、16世紀初頭のイタリアは、複雑に時代背景の交錯した時期だったと言えます。教皇ユリウス2世は教皇領の拡大と外国勢力の排除を精力的に推し進めましたが、1527年の皇帝軍によるローマ劫掠は統一イタリアの理念を打ち砕いてしまい、イタリアの都市国家は外国の強い圧迫によって急速に政治的自立性を失っていきました。そんな社会的な背景もあり、イタリアは君主政国家に転じていき、それに伴い、君主を中心とした宮廷が芸術文化の核となっていったのです。こうした大きなターニング・ポイントの中で、それを反映するかのような、どこか非現実的な人体表現を特徴とするマニエリスム様式が、半世紀以上、イタリア芸術を支配することになるのです。
ロッソ・フィオレンティーノは、1528年に始まるフォンテーヌブロー宮の改装を機にフランスに招かれ、フランソワ1世に重用されたのですが、自殺によって生涯を閉じたと言われています。その理由など、定かなことは伝えられていませんが、この作品をよく観察したときの不安定な心のザワつきを想うとき、彼の深刻なこころの闇に、ふと触れてしまったような気もするのです。右端で顔を覆い、ひときわ激しく慟哭している聖ヨハネは、実は画家自身の自画像であるとも言われています。こんなに悲しまなければならなかったロッソ・フィオレンティーノ….。この時代に、安定した精神状態を保つことは難しかったのでしょうか?…などと、その死に余計な予断をはさんではいけないかも知れません。
この大構図の作品の中で、各人物の衣服や肉体のかたちそのものを、切り取った面のような手法でとらえている様子は、すでに20世紀のキュビスムをさえ連想させてくれます。彼は、時代に翻弄されたのではなく、強い意識で新しい時代をつくろうとした画家だったに違いありません。
★★★★★★★
フォルリ美術館 蔵