十字架から降ろされ、やっと現世での苦痛から解放されたキリストの顔は、画家によって穏やかに描き出されています。
そして、キリストの身体には重力が感じられず、まるでふわりと浮いているようです。抱える人々は、やさしく手を添えているだけのようでさえあるのです。
この作品は、フィレンツェのサンタ・トリニタ聖堂内のストロッツィ家礼拝堂のために描かれました。
見守る人々は深い悲しみに沈みながらも、画面には静かな哀悼の気が満ち、人々の赤やブルーの美しい衣がこの場を透明感をもって彩ります。キリストの足に接吻するのはマグダラのマリア、その向かい側でひざまずくのは、どうやら私たちと同じ俗世界の人間のようです。彼は、この世と画面の中の世界をつなぐ役割を果たしているのかもしれません。
向かって左側の9人の女性たちは、聖母マリアを囲んで輪を作っています。そして、向かって右側の6人の男たちは、敬虔なる信者たちです。
その中の一人は、茨の冠と、キリストが十字架に打ち付けられた際の3本の釘を示しています。彼の頭のまわりには、かすかに黄金の光背が見てとれますが、どうやら、画家と同時代の人間のように見えます。
また、キリストの傍の黒い頭巾の男は、一人だけひどく写実的であることが気になります。おそらく、この作品の注文主か、特定の人物の肖像なのでしょう。ひときわ、印象的です。
ところで、この作品が、ロヒール・ファン・デル・ウェイデンの「十字架降下」にとてもよく似ていることは興味深いところです。
実は、北ヨーロッパと南ヨーロッパは1430~1440年代に緊密な交流があり、殊にフランドルとフィレンツェの間ではそれが顕著だったといいます。
フラ・アンジェリコはドミニコ会修道院の修道僧でしたから、院の図書館で初期ネーデルラント絵画を代表する画家、ファン・デル・ウェイデンの作品の写本を見た可能性は高いと思われます。そう考えると、敬虔で心優しいイメージのフラ・アンジェリコですが、意外にも北方ヨーロッパ絵画への強い関心と、彼の中にある飽くなき向上心を感じることができるのです。
この祭壇画の主要部分はフラ・アンジェリコの手になりますが、両側のパネルや上部の小破風などは、やはり画僧であったロレンツォ・モナコの作品と言われています。このあたりから、当初ロレンツォに委嘱された祭壇画でしたが、フラ・アンジェリコが仕事を引き継いだとする説が有力です。
伝統的なゴシック様式で始められた作品は、フラ・アンジェリコの手で光り輝く風景を背に、透明で明るく、洗練されたルネサンスの風をはらんだ祭壇画となったのです。
★★★★★★★
フィレンツェ、 サン・マルコ美術館 蔵
<このコメントを書くにあたって参考にさせていただいた書籍>
◎イタリア・ルネサンスの巨匠たち―素描研究と色彩への関心〈10〉/フラ・アンジェリコ
ジョン・ポープ=ヘネシー著 東京書籍 (1995-02-24出版)
◎西洋名画の読み方〈1〉
パトリック・デ・リンク著、神原正明監修、内藤憲吾訳 (大阪)創元社 (2007-06-10出版)
◎新約聖書
日本聖書協協会
◎西洋絵画の主題物語〈1〉聖書編
諸川春樹監修 美術出版社 (1997-03-05出版)
◎西洋美術史(カラー版)
高階秀爾監修 美術出版社 (1990-05-20出版)
◎イタリア絵画―中世から20世紀までの画家とその作品
ステファノ・ズッフィ著、宮下規久朗 (翻訳) 日本経済新聞社 (2001-02出版)