さざ波のように丁寧に筆を重ねたことで、心地よい風が吹き抜けるのを感じる美しい画面です。ピアノに向かい、演奏を始めた女性もまたその風の一部のように爽やかで、青を基調とした風景の中に溶け込んでしまいそうです。広く開け放たれた窓の外には木々が立ち並ぶ庭が広がっていると思われますが、それもさざ波のような筆致で重ねられた色彩のため、夢の世界のように明瞭ではありません。
室内に目を転じると、壁に掛けられた絵画の中で絃楽器を演奏する女性を見てとることができます。彼女はピアノに向かって横顔を見せる女性とは対照的に、はっきりと画面のこちらを見詰めています。そして傍らの丸いテーブルにはさまざまな高さのグラスに生けられた花たちが右に左に顔を傾けながら、意思を持つ者のように笑いさざめいているようです。この場にこんなに花たちが必要なのだろうかと少し不思議な気もするのですが、それも全て素速く重ねられた筆の効果か、風の中にまどろむ夢の世界の出来事と納得させられてしまうのです。
この美しい作品の作者フレデリック・チャイルド・ハッサム(1859年10月17日-1935年8月27日)は、アメリカ合衆国の印象派の画家です。ピアノを演奏する女性の白いドレスも窓外の景色も、いわゆる印象派ふうのテクニックを駆使して非常に心地よく描かれています。ただ、このやや過剰な花たちは世紀末のアール・ヌーヴォーふうであり、ただ温和しく印象派絵画で終わっていないところがこの画家らしい闊達さのように感じられます。
フレデリック・チャイルド・ハッサムはボストン生まれ。絵を描くことが好きで高校を中退して出版社で働いたあと、フリーのイラストレーターになり雑誌の挿絵を描くようになります。画家で版画家のウイリアム・リマーに絵画を学び、ボストン美術クラブの夜間コースで学ぶなど努力を続け、1882年には個展を開くまでになりました。
1883年にはヨーロッパを旅行し、ターナーの水彩画に深く影響を受け、帰国。結婚したのち、1886年にニューヨークで開かれたフランス印象派の展覧会を見てパリのアカデミー・ジュリアンに入学、3年間学んでいます。1889年にはパリ万博の展覧会に入選し、帰国後はニューヨークに住んで活動を続けました。1897年には米国芸術家協会を抜けて、フランスで学んだ画家たちとともに「テン・アメリカン・ペインターズ」を結成しています。ハッサムはアメリカ印象派の代表的画家として知られています。
ハッサムの作品たちはフランス印象派の画家たちの雰囲気をまとったものが多く、日本人好みかもしれません。粗く素速い筆致はベルト・モリゾ、都会的な雰囲気はカイユボット、雪の景色を描いたものはシスレー、花に囲まれた女性を描いたものはルノワールなど、何かとても懐かしい風景に、ふと胸をいっぱいにさせてくれるのがハッサムという画家なのかもしれません。
★★★★★★★
ワシントンDC スミソニアン・アメリカ美術館蔵
<このコメントを書くにあたって参考にさせていただいた書籍>
◎366日 絵のなかの部屋をめぐる旅
海野 弘著 パイインターナショナル (2021-7-28出版)
◎モネとジヴェルニーの画家たち アメリカ印象派の始まり [図録]
北九州市立美術館 (2010-1-1出版)
◎ビジュアル年表で読む 西洋絵画
イアン・ザクゼック他著 日経ナショナルジオグラフィック社 (2014-9-11出版)