「あなたはみごもって男の子を産むでしょう。その子をイエスと名づけなさい」。
キリストの托身(たくしん)が行われた瞬間、マリアは身を固くします。すると、聖告を携えた大天使ガブリエルは言います。
「恐れるな、マリアよ」。
多くの画家によって、数え切れないほど描かれてきた受胎告知の重要な場面ですが、バーン=ジョーンズの描いたマリアはどこか放心状態です。胸に手を当ててはいるものの緊張感はなく、心ここにあらざるマリアの顔からは、どんな感情も消えてしまっているように見受けられます。
バーン=ジョーンズは最初に神学を志し、オクスフォードのエクセター・カレッジに入学しましたが、中世美術やラファエル前派に鼓舞されて1855年、22 歳のときから画家を志しました。初期は独学だったため、その作品は二次元的な表現にとどまっていましたが、古典彫刻やイタリア絵画を学ぶことによってそれが徐々に修正され、70年代初頭にきて、神秘的で装飾的な古典スタイルを確立したのです。そういう意味では、画家として比較的珍しい経歴をたどった人物であり、その内的世界が単純ではなかったであろうことは、なんとなく想像できるのです。
彼の作風は非常に唯美主義的であり、芸術家の自然への深い沈潜と装飾的要素の必要を説くラファエル前派の画家としては、いかにも納得できるところです。しかし、この集団に彼を導いたロセッティなどの作品に見られるような、情感あふれる、ある意味清新な雰囲気はあまり感じられません。なにか動きが硬く、人物が彫刻のように見えてしまうのは、彼の技術的問題ということとはまた違うようにも思われます。浪漫的、観念的なテーマを多く扱いながら、整然とした構図と美しい色彩は、どこか俗な私たちの感情を拒むがごときバーン=ジョーンズワールドを構築しているのです。
ところで、宙に浮いたかっこうの大天使ガブリエルが身につけた衣装のひだの見事さには、思わず目を奪われます。天使はすでに背後の木の一部になってしまったかのように動かし難い存在となり、浮いているわりには自由さ、軽やかさは感じられません。彼自身が、この画面の中に完璧に捕らえられてしまったようです。そして、それを知りながらたたずむマリアの背後には、運命的に刻印されたような楽園追放のレリーフ、傍らには空の水差しがひっそりと置かれているのです。
★★★★★★★
ポート・サンライト、 レディー・リヴァー美術館 蔵