ここに描かれているのは神秘的な受胎告知…..のはずなのですが、ネーデルラントの、「フレマールの画家」と呼ばれたロベルト・カンパンの手で、私たちはフランドルの一市民の家へ連れて来られてしまいます。
カンパンは宮廷画家ではなく、右翼において、聖母の部屋の外に敬虔な面もちで跪いている寄進者夫妻と同様の、富裕な市民の要望に応じる庶民だったのです。この作品もまた、板絵としてはじめて、受胎告知を家具調度の整った北方の家庭の室内で起こったこととして描いています。そういう意味でも特筆すべき祭壇画であり、鑑賞する私たちは、パネルの表面に、日常生活の親しみやすい要素と安定を、とても身近な実感として感得するのです。
この受胎告知には、もしかすると、従来の作品に見られたような、明るく輝かしい色彩や金色のふんだんな使用は見られず、少し寂しい印象を持つことがあるかも知れません。しかし、カンパンの画面には、そうした装飾性とは違う、落ち着いた輝きが満ちているのです。柔らかな緑色、青味のかかった、または灰色がかった茶色が全体を包み、繊細に注意深く施された中間的で濁りのない色彩の心地よさが私たちを理屈ぬきな幸福感に満たしてくれるのです。
また、カンパンの表現力の確かさを感じさせるものとして、その光の扱い方があります。彼は、柔らかく、明暗の微妙なグラデーションを生む散光と、画面左の二つの円窓から入る直接光さえも区別して描き分けているのです。ことに、真鍮の器や蝋燭立てに当たる反射光のクリアな美しさは、硬質で非常に端正です。
しかし、面白いことには、これほどすぐれた画家カンパンでありながら、その画面は、奥行きを極端に縮めたものとなっているのです。そのため、一つ一つのものや人物が、互いに狭い空間でひしめき合っているようにさえ見えます。そして画家は、まるで取り憑かれでもしたかのように、すべての細部のことごとくを微細に描き、具体的に、ありのままに描写することに徹底しているのです。そこには、遠近法が未だ確立されていない時期の稚拙さも垣間見ることができるのかも知れません。しかし、この少々ゴタゴタした、また個々のものの形がそれぞれに実体感をもった画面というのもまた、遠近法による描写にごく普通に慣れてしまった私たちには、かえって新鮮で、ウキウキと動きのある、楽しいものに感じられてしまうのです。
最後に、ちょっと気になるのが左翼に描かれた聖ヨセフではないでしょうか。実に、彼は本職である大工としてのお仕事の最中なのです。黙々と、作業に没頭する彼の顔には深い皺が刻まれ、やはり妻のマリアに比較すると、だいぶ老人であることがわかります。
ところで、ずいぶん長いあいだ、ヨセフの作業机の上と開かれた窓の外の棚の上に置かれた小箱状のものは何かということがはっきりしていませんでした。実は、これは神学的意味を伝えるためのもので、ねずみ落としなのだそうです。聖アウグスティヌスの言葉、「神はサタンをだますために、人間の姿で地上に現れねばならなかった。主の十字架は悪魔のねずみ落としなりき」….その象徴であるというのです。
そう考えたとき、この祭壇画にはさまざまな象徴が隠されています。聖母の純潔を表す百合の花、水鉢、書物などのお馴染みの象徴のほかに、消えた蝋燭なども印象に残ります。なぜ、蝋燭が吹き消されているのか….これは謎です。消えたばかりの蝋燭の灯というのは、現在知られる限りでは、この作品以外のどんな絵にも登場していません。このあたりを見たとき、カンピン自身、非凡な神学者であり、象徴的な意味を数多く理解していた人物だったのかも知れない…との憶測もできるのです。
写実の追求は、1420年代、フランドルから始まりました。そして、その最初の担い手が、このロベルト・カンパンその人だったのです。
★★★★★★★
ニューヨーク、 メトロポリタン美術館クロイスターズ分館 蔵