揺るぎない量感を持った二人の人物を力強く際立たせるために、画家はあえてその持ち味である写実的な細部描写ではなく、遠近法を用いて表現された床にこそ情熱を注いだように思われます。そのおかげで、存在感あふれるマリアと大天使ガブリエルは、それは美しく、象徴的に描き出されています。
晩年のアンブロージオ・ロレンツェッティ(1319-48年)の作品における完成度の高さには目を見張るものがあります。しかし、晩年とはいっても、彼がこの時わずか25歳の青年であったことを思うと、当時の画家たちの老成ぶりには圧倒される思いです。アンブロージオはこの4年後、兄のピエトロとともにペストに冒され、29歳の若さで亡くなっているのです。
アンブロージオの特徴は、何といっても遠近法に対する深い理解だったでしょう。そのため、構図や図像はきわめて独創的で、14世紀シエナの代表的画家としての揺るぎない位置を保っています。しかし、彼の魅力はそのすぐれた技巧だけにとどまるものではありません。なぜか現実のものをお伽噺に変えてしまうような、また、神聖で難解な主題に具体的で明快な人物の姿を与えることで、何かとても楽しく、晴れ晴れとした雰囲気に変化させてしまうような、そんな才能を持っていたのです。アンブロージオの鋭敏な感受性が、この時代としてはあまりに洗練されたものであったことにも、画家の並外れた才能を実感せずにはいられません。
ところで、受胎告知にはさまざまな表象があるわけですが、ここには大天使とともに小さな鳩が登場しています。鳩は11世紀以降、この主題に頻繁に顔を出すようになりました。最初のころにくらべるとだいぶ小さく描かれるようになっていましたが、それにしてもこの鳩は小さくて、大切な役目を果たせるのかと、ふと心配になります。
大天使は神の言葉の伝達者、鳩は神秘の受胎の運搬者なのです。それは、『ヤコブ原福音書』の天使が「あなたは彼の言葉によって身ごもる」と告げたことでも明らかです。この作品でも、大天使の口から出た言葉がラテン語の金の荘厳文字で示されています。
「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」。マリアは答えます。「お言葉どおり、この身になりますように」。
ところで、ここで注目したいのが、マリアがひざに置いているのが赤い革表紙の中型の旧約聖書である点です。マリアが、神の母としてふさわしい知的な女性として描かれているのです。そして、彼女と棕櫚の葉を携えた大天使の間は接近し、ある意味、親密でさえあります。二人の間を隔てるものは何もありません。天使とマリアが同等の立場で描かれているわけです。聖なる世界をそれまでの平板な表現ではなく、現実の人間世界に生きるドラマとして描こうとした、ルネサンスの息吹を感じさせる受胎告知となっているのです。
★★★★★★★
シエナ国立絵画館 蔵
<このコメントを書くにあたって参考にさせていただいた書籍>
◎西洋美術館
小学館 (1999-12-10出版)
◎イタリア絵画
ステファノ・ズッフィ、宮下規久朗編 日本経済新聞社 (2001-02出版)
◎西洋美術史
高階秀爾監修 美術出版社 (2002-12-10出版)
◎世界の名画100選―ラスコー洞窟画からサルバドール・ダリまで
鈴木治雄・長谷川智恵子選・著 求龍堂 (1997-07-25出版)