『ルカ福音書』1:26-38 に記された聖告は、新約の世界の始まりを告げる最も大きなイベントです。
大天使ガブリエルの、
「あなたは身ごもって男の子を産むでしょう。その子をイエスと名づけなさい」
という言葉に、
「私は主のはしためです。お言葉どおりこの身になりますように」
とこたえるマリアの図は、おそらく西洋絵画の中でも最多のものではないでしょうか。
飾りのない簡素な部屋で向き合うマリアと大天使の後ろには、手を合わせて瞑想する聖ドミニクスの姿が見てとれます。受胎告知のテーマには珍しい3人目の登場人物ですが、この作品のあるサン・マルコ修道院の修道会であるドミニコ会の創設者であり、ヨーロッパじゅうを旅しながら説教を続けた聖人として知られる人物です。
作品の中の彼の存在が、この重要で緊張感に満ちた場面に安らぎを与え、幸福な一瞬に導いているように感じられます。
ドミニコ会の修道士には多くの美術家が存在します。中でもフラ・バルトロメオと並んでフラ・アンジェリコ(1395-1455年)は、最も輝かしい作品を残し、今も私たちを魅了し続けています。
サン・マルコ修道院にも、修道士たちを瞑想に誘うような簡素で美しいフレスコ画がそこここに配されていますが、フラ・アンジェリコの壁画の秀逸さにはひときわ心を打たれます。2階の僧坊に描かれた、この清らかな187×157㎝の「受胎告知」も、天使のような画僧と呼ばれたフラ・アンジェリコにふさわしい美しさです。
ここである種の驚きを感じるのは、どこかゴシック的で、優美ではあるけれど人物表現にお人形さんのような可愛らしさの残るフラ・アンジェリコが、実は非常に正確な三次元的空間描写を実現している点なのです。大天使とマリアが向かい合う、何一つ余計なもののない簡素な建物の内部には、深い奥行きと、外部からの光による明暗が精緻に描き出されています。天井のアーチに見られる複雑な曲線も、画家の並々ならぬ研究の成果と技量を思わせずにはおきません。
もしかすると、この簡素さこそ、彼の腕の振るいどころだったのかもしれません。アヴェ・マリアを唱えつつ、喜びをもってこの作品に対峙したフラ・アンジェリコの姿が目に浮かぶようです。
2階には、階段を上がった正面に、あまりにも有名な「受胎告知」があります。だれもが知る偉大な作品です。私たちはついついその壁画にばかり目を奪われてしまうのですが、こちらの「受胎告知」の持つ静けさ、天使とマリアの謙虚さが、よりいっそう修道士たちの瞑想と祈りの場にはふさわしいのかもしれないという気がしてきます。
作品の美しさが心にしみ入って、いつまでもいつまでもここに佇んでいたくなる一作です。
★★★★★★★
フィレンツェ、サン・マルコ修道院 蔵
<このコメントを書くにあたって参考にさせていただいた書籍>
◎西洋美術史(カラー版)
高階秀爾監修 美術出版社 (1990-05-20出版)
◎オックスフォ-ド西洋美術事典
佐々木英也著 講談社 1989/06出版 (1989-06出版)
◎西洋絵画の主題物語〈1〉聖書編
諸川春樹監修 美術出版社 (1997-03-05出版)
◎西洋美術館
小学館 (1999-12-10出版)
◎イタリア絵画
ステファノ・ズッフィ、宮下規久朗編 日本経済新聞社 (2001-02出版)