この清らかで小さな板絵は、ロバート・レーマン・コレクションの一つとして、メトロポリタン美術館の小さな宝石とも言える作品です。
ロバート・レーマンはユダヤ系のドイツ人で、残念ながら2008年9月に事実上破綻した名門投資銀行、リーマン・ブラザーズの三代目社長であり、その厖大な美術コレクションによって、METにロバート・レーマン・ウィングが新設されたのでした。
この時期、サンドロ・ボッティチェリ(1444-1510年)は、「春」や「ヴィーナスの誕生」などの輝かしく異教的な神話画の傑作を次々に生み出し、絶頂期を迎えていました。キリスト教の宗教画が大勢を占めていた時代、ギリシャ神話をテーマとする絵画は斬新でした。これは、芸術家の庇護者が教会からメディチ家のような裕福な市民へ移っていったことの表れでもあったのです。メディチ家が支配したフィレンツェの黄金時代、ルネサンスの担い手はボッティチェリの優雅さだったと言えます。
それでも、ボッティチェリは不思議なほど、受胎告知を多く描いています。それも、動的で個性的なものが多く、遠近法や明暗法を駆使するよりも、奥行きを取り払ったような、線による微妙な表現を大切にするのがボッティチェリの特徴でした。
しかし、この20×30㎝ほどの小さな受胎告知は、画面をきっちりと二つに分けた遠近法の中に収められています。線に頼らない、ふわりとした衣の表現なども、ボッティチェリの別な魅力に思えます。
マリアと天使は、並んだ柱を隔てて向き合います。軽やかに、聖なる光とともに降り立った天使は、まだ風をはらんでいるようです。
一方、マリアは書見台の前にひざまずき、天使に挨拶をしています。読書の最中の突然の訪問に、ただ戸惑うばかりなのです。奥の小部屋は、マリアの私室なのでしょう。ベッドとチェストだけの簡素さです。そして、マリアの前の書見台には、一冊の大型本が置かれています。聖ベルナルドゥスによれば、これは「イザヤ書」であり、有名な預言の一節、
「見よ、乙女がみごもって男の子を産む。……」(7:14)
と書かれたページであると言われています。それを、マリアはじっと覗き込んでいるようにも見えます。天使の言葉を、確認してでもいるかのようです。マリアは本にほかならず、神がその本に、神の子が人となった次第を記したという考えは、四世紀ごろからの古い思想でした。
ところで、興味深いことに、マリアの背後の背の高い椅子の上にも、二冊の赤い表紙の本が置かれているのが見てとれます。一冊は木箱の上に、もう一冊は錫製の蓋付きの器の下に置かれています。木箱も蓋付きの器もマリアの母性のシンボルと言われていますから、ここにも画家の深い配慮が感じられます。
そして、マリアも天使も殆ど左右対称にかがんでおり、手で衣装をちょっとつかむ仕草も同じです。ここで、神の御使いである大天使ガブリエルとマリアが、同等の存在であることもまた暗示されているのです。さらに、大天使の捧げ持つ白い百合は、まさに聖母の純潔の象徴なのです。
★★★★★★★
ニューヨーク、メトロポリタン美術館 蔵
<このコメントを書くにあたって参考にさせていただいた書籍>
◎西洋美術史(カラー版)
高階秀爾監修 美術出版社 (1990-05-20出版)
◎オックスフォ-ド西洋美術事典
佐々木英也著 講談社 1989/06出版 (1989-06出版)
◎聖母のルネサンス―マリアはどう描かれたか
石井美樹子著 岩波書店 (2004-09-28出版)
◎西洋美術館
小学館 (1999-12-10出版)
◎イタリア絵画
ステファノ・ズッフィ、宮下規久朗編 日本経済新聞社 (2001-02出版)