• ごあいさつ
  • What's New
  • 私の好きな絵
  • 私の好きな美術館
  • 全国の美術館への旅

「大きな帽子をかぶったジャンヌ・エビュテルヌ」 

アメデオ・モディリアーニ (1917年)

ジャンプ

ここをクリックすると、作品のある
「Olga’s Gallery」のページにリンクします。

 つばの広い帽子をかぶって、人差し指と中指を頬に当てたモデルは、瞳の描かれていない水色の目を虚空に漂わせているようです。すべてを受け入れているような、それでいてとても悲しそうな彼女の表情は見る者の心をとらえます。本当は、目の前にいる画家と出掛ける約束でもしていたのかも知れません。しかし、画家はいつも通りの気まぐれで、さっきまでの約束はすっかり忘れ、また昼間からお酒を飲み始めてしまって…..。頬に当てた指の所在なさ、中心線を少し外れて傾いた頭部に、彼女の心理的な深さが読みとれるようです。

 彼女の名前はジャンヌ・エビュテルヌ。1898年、パリに生まれました。父親は会計士であり、17世紀文学の研究家。兄は画家で、彼女もまたアカデミー・コラロッシで絵の勉強をする画学生でした。現在残されている数少ないジャンヌの絵には、画家としての豊かな天分が認められると言われています。そして、きちんとした家庭で育てられたジャンヌは、心優しく、慎ましく、そして美しい女性でした。

 そんなジャンヌがアカデミー・コラロッシでモディリアーニと知り合うのが、ちょうどこの作品の描かれた1917年の謝肉祭の日でした。二人は出会ってすぐに、安ホテルを転々としながら共同生活を始めます。もちろん、ジャンヌの両親の猛反対を押し切ってのことでした。そのとき、モディリアーニは33歳、ジャンヌは19歳でしたから、両親の反対はもっともなことだったでしょう。しかも、ジャンヌと一緒に暮らしても、モディリアーニはその放埒な生活態度を少しもあらためようとはしなかったわけですから、彼女はただ、じっと耐えて夫を待つだけの毎日だったのです。
 モディリアーニがジャンヌの瞳を描かなかったのは、彼特有の人物の普遍化、永遠化のためだけだったでしょうか。ジャンヌの悲しみをよくわかっていながら幸せにしてあげることのできない彼には、瞳のない青い目を描くことしかできなかったかも知れません。「私が描く人物は見ることができる。たとえ瞳をつけてやらなくても….」。モディリアーニのその言葉を、この作品の中のジャンヌは、どんな思いで聞いているのでしょうか。

 ところで、モディリアーニの描く人物たちの特徴として、その首の長さを挙げる人も多いかも知れません。これは、彼の作風が、不思議に古典主義的な特質を堅持していたことに依るところが大きいとも言われています。おそらく、初期ルネサンス、マニエリスム、またアフリカの彫刻、浮世絵、そしてセザンヌ、キュビスムあたりの影響も混在して在ったかと思われます。
 モディリアーニは、20世紀初頭のパリの、前衛的な美術運動に加わるには、故国イタリアの伝統的な美術を吸収し過ぎていたかも知れません。しかし、それでいて、伝統的なイタリア美術を信奉するには、彼の中にあるユダヤ系の血が、パリに住むユダヤ人たちとの交流を深くさせ過ぎてしまってもいました。ところが、東欧や北欧からの異邦人が多かったパリのユダヤ人社会で、彼のようなイタリア人は、一種特異な存在とも言えたのです。そんな、複雑な孤独を抱えたモディリアーニの心の奥もまた、若いジャンヌには理解しきれなかったかも知れません。

 アルコールとはとうとう縁が切れず、貧困と病いのうちに死を迎えたモディリアーニは、その死の間際、「もう一度イタリアを見たい」とつぶやいたと言われます。それは、帰るべき故郷を持たない、または帰る意思のない異邦人画家たちに共通した呟きだったかも知れません。

★★★★★★★
ニューヨーク、 メトロポリタン美術館 蔵



page top