大天使ラファエルの言葉に耳を傾けるトビアスは、旧約聖書外典『トビト書』の中に登場する、敬虔なユダヤ人トビトの息子です。一方、ラファエルは若者の庇護者、そして巡礼者など旅人の庇護者です。そんなわけで、美術作品の中では、若いトビアスの旅の伴侶として描かれることの多い天使なのです。そんなラファエルを信頼しきった様子のトビアスに向かって、ラファエルの右手がまっすぐに差し伸べられています。
紀元前8世紀のアッシリア捕囚時代、ニネヴェにトビトという信仰篤いユダヤ人が住んでいました。トビトは妻アンナと息子トビアスとともに暮らしていましたが、晩年、失明してしまいます。自らの死の近いことを悟ったトビトは、人に貸してあった金を返してもらうために、メディアの地まで旅をするようにと息子トビアスに指示を与えます。そして、その旅には、神によって遣わされた大天使ラファエルが同行するのです。神のトビトへの格段の配慮は、困窮にあえぐ同胞を助け、王によって殺された者たちが手厚く葬られるよう取り計らったトビトの、深い心を慈しんでのことだったかも知れません。
この旅には、トビアスの飼っていた犬も従っていました。犬はユダヤ人にとっては不潔なものと見なされていました。その犬が登場するというのも珍しいことです。聖書の他の箇所でも、犬が人間の友として語られることは殆どありません。ですから、この物語は、犬を聖なる動物としたペルシアあたりの民間伝承に由来しているのかも知れません。この作品でも、二人の傍らにうずくまる犬がちゃんと描き込まれています。
ティグリス川まで来た時、トビアスが水浴びをしようとすると、突然巨大な魚が跳び出し、彼を食べようとしました。しかし、トビアスは大天使ラファエルの指示によって、魚を捕えて、その内臓をとり出します。そして、心臓、肝臓、胆嚢を別にします。大天使の言葉によると、心臓と肝臓を燃やすと悪霊を祓う効果があり、胆嚢はトビトの目を癒す効果があるというのです。この場面は、そんな大天使の言葉に、驚いて聞き入るトビアスの様子が描かれているのです。やがてラファエルの言葉通り、心臓と肝臓はトビアスの花嫁となる女性から悪魔を祓うことに役立ち、そして花嫁を連れて帰郷してからは、胆嚢によってトビトの目が回復することになるのです。しかし、川の中からチョコンと顔を出している魚が、現実にトビアスを食べられるのかどうかは、少し疑わしい感じもしますが….。
それにしても、この物語の主人公はトビアスなのですが、この作品の中では、彼は陰の存在のようであり、私たちはまず、みごとな白い翼を持つ大天使の美しい姿に目を奪われてしまいます。岩に片足をのせた安定した姿勢、輝くような翼、衣装の襞の流れるような細やかな線、ゆったりと柔らかい雰囲気….。これらは、同じく16世紀ヴェネツィア派の画家ロットの持つ、明確な形態と輪郭、屈折した心理表現などの影響が指摘されています。端正な顔立ち、やわらかそうな巻き毛も、天使というよりは人間的な情感の伝わる親しみやすさなのです。
作者のサヴォルド(1480-85)は、16世紀初め頃、北イタリアで活躍した画家です。彼に関する記録は少なく、その生涯については殆ど不肖です。フィレンツェで修業し、ヴェネツィアで創作活動に従事しましたが、寡作家だったうえに、伝統的なヴェネツィア絵画とは少し違う、彼独自の作風を持っていたようです。しかし、21年から48年まで生活したヴェネツィアで、ジョルジョーネの詩的情趣表現、ティツィアーノの大胆な筆触、そして先述したロットなどの影響を深く受け、同時に、ネーデルラント絵画の持つ滑らかな絵肌、澄明な色彩にも触発されたようです。そして、独特の光の扱い、明暗の効果は、後のカラヴァッジオへと続くものとも言われています。
それにしても、とても不思議なことに、トビアスは旅から帰るまで、同行していたラファエルが大天使とは知らなかったのです。それは、物語の中では、大天使が普通の人間の姿だったからであり、天使に特有の翼は、のちにキリスト教の約束ごととなったものだったからです。それほど、人間と天使は本来、近しい関係だったのかも知れません。貧しく純朴な人々の前に、ごく自然に現れる天使は、後期ゴシック絵画の特徴でもありました。画家は、そのあたりの絵画からも多くのものを学んでいたのかも知れません。どこか不思議な魅力と親密さを兼ね備えたサヴォルドならではの、やさしくのびやかな、美しい世界です。
★★★★★★★
ローマ、 ボルゲーゼ美術館 蔵
<このコメントを書くにあたって参考にさせていただいた書籍>
◎キリスト教美術図典
柳 宗玄・中森義宗編 吉川弘文館 (1990-09-01出版)
◎西洋絵画の主題物語〈1〉聖書編
諸川春樹監修 美術出版社 (1997-03-05出版)
◎西洋美術史(カラー版)
高階秀爾監修 美術出版社 (1990-05-20出版)