教えを広め始めたころ、ガリラヤ湖の北カナペウムの地までやって来たキリストは、ある日、ガリラヤ湖畔でペテロとアンドレの兄弟が漁をしているのに出会います。しかし、いくら網を打っても魚の獲れる様子がありません。するとキリストは、ペテロの漁舟に乗り、岸から離れて人々に教えを説いたあと、網を降ろすようにと言いました。
ペテロは内心、半信半疑でしたが、果たして、網には多くの魚がかかり、近くにいたヤコブやヨハネまで、魚を舟に揚げるのを手伝わねばならないほどだったのです。彼らは驚き、ペテロはキリストにひれ伏しました。
するとキリストは、
「恐れなくてよい。今からあなたは人間を獲る漁師になるのだ」
と語り、彼らはすぐさまイエスに従うことになります。
これは、「ルカ福音書」の第5章にある「弟子の召命」の有名な一節ですが、「ヨハネ福音書」第21章において、このエピソードはキリストの磔刑以後のこととして語られていて、イエスの出現の一つとされています。その点を考慮に入れてあらためて見直してみますと、この作品の中でイエスは、舟の中ではなく岸に立っており、ペテロは主に近づこうと海に飛び込んでいるのがわかります。一般的にこの表現の場合、「ルカ福音書」ではなく「ヨハネ福音書」を典拠としている、と考えるのが正しいようです。
ヤン・ファン・エイクやファン・デル・ウェイデンらフランドルの巨匠たちの生み出した美しい写実主義は、やがてフランスやドイツ、そしてスペインからバルト海沿岸にまで及びました。コンラート・ヴィッツは、その影響のもとで才能を開花させた画家の一人でした。
ドイツのシュヴァーベン地方、ロットヴァイルで生まれたヴィッツは、おもにスイスで活躍したため、残された作品はほとんどヴァーゼルとジュネーヴの美術館に所蔵されています。鋭く角張った衣服の襞や、人物の力強い彫塑的な表現、大胆な遠近法など、ヴィッツの作品には彼の深い探究心と革新性を感じさせる特徴がたくさんあるのですが、何よりも特筆すべきは、現実の風景の写実的な描写にあったと言えると思います。
私たちはふと、キリストの足もとに目を落としたとき、そこに描かれた水面の詳細な表現に惹き付けられます。湖面に映る湖岸の建物や木々、舟の上の人々の姿、そして舟のまわり、ペテロの周囲に広がるさざ波の変化、白い泡、水の透明感…..。その美しさは、どこかただごとでないほどに生き生きと、絶えず動き続けているようです。
ヴィッツは、風景表現という点において、もっとも早く”現実の風景”を描いた画家なのです。この作品の中でも、湖はレマン湖、特徴的な形をした黒っぽい山はモル山、そして遠く雪を頂く山々はアルプス山脈….。まさに、現実の場所を特定できる風景画なのです。
現存する最古の風景画は、実はジュネーヴで活躍したドイツ画家ヴィッツの、生涯最後の作品でもありました。明るい陽光を受けたレマン湖畔は澄明な空気に満ち、心地良い風が吹き抜けます。それはおそらく、560年近く経った今も変わることのない自然の表情なのではないでしょうか。ヴィッツの瑞々しい眼は、今も静かにそれを確認し続けているように思えます。
★★★★★★★
ジュネーヴ美術歴史博物館 蔵
<このコメントを書くにあたって参考にさせていただいた書籍>
◎世界美術大全集 西洋編〈第14巻〉/北方ルネサンス
小学館 (1995-07出版)
◎西洋絵画の主題物語〈1〉聖書編
諸川春樹監修 美術出版社 (1997-03-05出版)
◎西洋美術史(カラー版)
高階秀爾監修 美術出版社 (1990-05-20出版)
◎西洋絵画史WHO’S WHO
諸川春樹監修 美術出版社 (1997-05-20出版)