店内にディスプレイされた美しい帽子の一つをそっと眺めているのは、この店でお針子をしている女性のようです。彼女の質素な身なりから、彼女がここに並べられた華やかな帽子たちとは無縁な女性であることを感じさせます。主人がちょっと外出したすきに、思わず手にとってしまったのかもしれません。
画面の左側に並んだ帽子たちは、一つ一つが大輪の花のようです。誇らしげに並ぶ華やかなモティーフを前面に配し、女性を右側に寄せて視線を外側に向けるという構図はドガ独特のものです。彼は、1865年にも「菊と女」という華麗な静物画を描いており、この作品ととてもよく似ています。
しかし、そこに描かれた女性の表情はだいぶ違います。この作品の、物思うような、少し悲しげな雰囲気は、人物に余り情感を与えることのないドガには珍しいもののように思えます。私たちの視線は、彼女とともに画面の右へ、そして枠外へと自然に流れていきます。手にした帽子までもスパッと切られていることが、かえって、その向こうにある世界の広がりを伝えてくれるのです。
エドガー・ドガ(1874-1917年)は、印象派画家たちとの接触から、近代生活をテーマとして取り組んだ画家でしたが、戸外における光と大気の微妙な変化よりも、室内の照明が露わにする人々の生活の諸相にこそ強い興味を寄せていました。彼は「踊り子の画家」として有名だったわけですが、1880年代前半には、帽子店をテーマに約10点のシリーズを制作しています。
この作品はその中でも最大のもので、油彩画であることも大きな特徴です。ドガは70年代半ばごろから、溶液を用いずに素早く描けるパステル画に傾倒していましたから、シリーズのほとんどもパステルで描いていました。ただ、この作品だけは、なぜか油彩だったのです。しかし、その色彩の輝きやタッチはとてもパステル的で、ドガが極めてパステルの画家であったことを実感させます。この解き放たれたような美しい色遣いを、軽やかでやさしいパステルと見違える人もきっと多いことと思います。
ドガは、作曲家ビゼーの未亡人シュトラウス夫人とともに、洋装店や帽子店をしばしば訪れたといいます。そうした折、たまたま華やかな店の裏側の顔を垣間見る機会もあったのかもしれません。
意識的なものかどうかはわかりませんが、中央のひときわ華麗な帽子が、ちょうど彼女の頭にすっぽりとかぶせられているように見えてしまいます。さまざまな文献は、なかなかドガの人間的な優しさや暖かさは伝えてくれませんが、こんなところに、ふと彼のシャイな人柄が見えてくるようです。画家はこの一瞬だけ、彼なりの方法で、彼女を貴婦人にしてしまったのかもしれません。
★★★★★★★
ウィーン、 美術史美術館 蔵
<このコメントを書くにあたって参考にさせていただいた書籍>
◎西洋美術館
小学館 (1999-12-10出版)
◎印象派
アンリ‐アレクシス・バーシュ著、桑名麻理訳 講談社 (1995-10-20出版)
◎印象派美術館
島田紀夫著 小学館 (2004-12出版)
◎西洋美術史
高階秀爾監修 美術出版社 (2002-12-10出版)
◎西洋絵画史who’s who
美術出版社 (1996-05出版)